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Column

時代の実感

 私は昭和、平成、令和と三つの時代を生きてきたが、多分、昭和の末期に生まれた娘はもしかすると四つの時代を生きるかもしれない。この場合の時代とは一人の天皇が君臨した期間を時代と称していることになる。
 その上位の時代区分は私の中では縄文、弥生、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町・・・という小学校の社会科で習った時代区分でこの感覚を実感として時代と思っている節がある。そう考えると、後世の人々は昭和、平成、令和などは一括りにしてしまう可能性が大きい気がしないではない。
 こんなことに私が身近に感じるのは年寄りが過去を懐かしむということだけではなく、いわゆる歴史小説的なものを書いているからだ。
 いわば本阿弥家という稀な家系を持った人たちの事績をテーマにした物語を書き始めたのだが、このような小説を書く一番の肝はその時代のフィーリングを掴み、その中で物語が展開されるのが重要かと思っている、したがって、これを自家薬籠のようにしなければ書けない。たとえば男女の関係などもそのような中でとらえるので現代とはかなり違ってくることになる。
したがって、その時代の物語を書くとなるとそのあたりをどうとらえるかで苦労をすることになるが、現代の読者にはそのあたりの機微を物語の底辺に漂わせて書くことが求められる。でないと時代感というものがなくなってしまうからだ。その微妙なタッチのようなものはかなりむずかしい。

「鎌倉殿の13人」いう大河ドラマが始まったので毎週見ているが、基本的に実際に起こった事実は創作というわけにはいかないので象徴的な出来事の流れを押さえて、そこに至る理由やプロセスを作家自身が創作することになる。このような物語はしたがって、この場合、三谷幸喜ならではのものarranged by Koki Mitaniになる。
この番組よく見るととりたてて鎌倉時代を意識しているとは思えない。フツーの標準語で話しているし、着ているものを現代の洋服にしたら現代劇になってしまう。要するに映画などは大道具、小道具があるので言葉に頼らなくとも時代劇になってしまうのだ。その点、小説よりかなり楽である。

このドラマの新しさは北条義時を主人公としてその物語を描がいたことにあるのではないか、この人物これまであまり注目されてこなかった。 
偶然だが今、鎌倉時代を書いているのでその周辺を調べているが、北条義時という人物はその長子である北條泰時の父親であるというくらいの認識しかなかった。私に言わせればこの人物の立派さはその子供たち、長男の泰時を初めとする6人の子どもたちの立派さに現れているかもしれない(但し次男の朝時は例外とするべきか?)
しかしよく考えると義時に連なる得宗家とはいわば鎌倉幕府の最大派閥であり、この時代によくある血統による統治職の継承ということでハプスブルク家のようなものであろうか?今では血統による内々の統治などナンセンスと思われるが、現代の政治家をみるとそうでもないかもしれない
しかし、これもある面では是とされる世界もある。たとえば伝統芸能の歌舞伎である。先日、市川染五郎が木曽義高という役で出演した。最後は婚約者大姫の父である源頼朝によって殺されてしまうのだが、その役を演じた市川染五郎があまりにも凛々しくて、その後、何日か義高ロスならぬ染五郎ロスがネット上で話題になった。
私にはそれがピンとこなかったのは染五郎というとそのおじいさんの市川染五郎、現、松本白鴎しか思い浮かばなかったからだ。というのは、私は3人の市川染五郎を見ていたからだと思う。おじいさんの染五郎、お父さんの染五郎、現在の染五郎。多分、現染五郎が結婚して、男の子が出来たら、四人目の市川染五郎が登場するのだろう。まさにその名前も血統で受け継がれる。
 
 木曽義高を慕っていた長女大姫の懇願で頼朝は義高を殺すことの中止を指令したがその甲斐もなく大姫の愛した義高は殺されてしまう。憔悴した大姫は19歳で亡くなるのだが、その時の痛手が命を縮めたと言われている。
そんな悲劇の大姫を弔ったお堂が亀が谷切通の入口に今でもある。現在のお堂は立派になったが私が鎌倉に越してきた35年前はその大姫の話そのものの鄙びた板壁の隙間から中が見えるようなお堂であった。いつもそこを通るたびに悲劇の大姫を思い出したものである。そんなことが記憶の断片にあったのでドラマでこのシーンが出ると妙にその時に思った記憶が甦る―しかし、ドラマではその後の大姫がやけに明るいのが気になった。

 私の小説はそろそろ鎌倉時代が終わりに近いが、鎌倉幕府の次の室町幕府がいまいちインパクトが弱い。その理由の一つは室町幕府の拠点が分散しているからなのではないかと思われる。というのは今回気づいたことなのだが鎌倉にも室町幕府の主役ともいえる足利尊氏や足利直義の痕跡が意外とあるのだ、たとえばこの二人の墓は鎌倉にあるし、この二人は鎌倉で生まれたといわれている?
 ただ、現実は足利将軍の15人中、初代の尊氏以外は生涯京都に暮らし、京都が政治の場だったので、やはり室町幕府とは京都になるのだろう。その後、鎌倉があっという間に衰退して一介の漁村の様になってしまった。その鎌倉が注目されるのは明治になって著名人、富裕外国商人の別荘地になってからである。
                             2022年6月13日 T・I

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