ブランドワークス

Column

海辺の枢機卿

 年末の江の島のTULLYSでK枢機卿とキリスト教の起源について意見を交わす。私は枢機卿の書いた論文に感銘を受けたのだ。その論文の主旨はキリスト教の一貫した行動原理はどのようにして生まれたのか?に対する仮説がたてられ、その仮説の正しさを証明するために様々な課題を探して検証することでその仮説の正しさを立証するというものであった。
 
 聖書を読むとイエズスは多くの人が直面する問題に対して自分の考えを言う。その考えの集積が聖書であり、それがキリスト教になった。基本的にイエズスの考えは彼が直面した何らかの出来事に対する彼の意見=言葉であるので、それが一貫した、矛盾していないであろうことから、ある一つの思想体系になっていることをもってキリスト教として確立したことになる。
 イエズスの活動期間は3年+αの短い期間に当時の社会で起きたことに対するイエズスの言動なのだが、それが正しいことは歩けなかった人が歩き、目が見えない人が見えたことなどによって証明されたので、イエズスの言ったことや、やろうとしていることを信じることによって救われると思う一縷の望みがキリスト教を支えているドライバーになっていると思われた。
 見えない人が見えるようになったり、歩けない人が歩けるようになることはキリスト教を信じれば誰もができることではなく、それはイエズスしかできない奇蹟というところがレトリックで普通の人にとっては別の方法(たとえば医学を進歩させる)で達成させるという希望に結びつけるということがキリスト教の現実的な価値なのだろう。

 ここで重要なキリスト教のコンセプトに行きつく。つまり、キリスト教とは現世をそのような世界に変えることをめざしているということなのである。例えば、仏教の世界では現世はしょせん無常の世なので、人はあの世である極楽浄土に行くことの幸せを願って現世を生きることをめざすのである。つまり、キリスト教は基本的に社会革新をめざしている点で根本的には宗教というより一つの社会思想のような気がしないではない。
聖書を読むとイエズスは見えない人をみえるように、歩けない人を歩けるように、ライ者を清く、あっという間に変えるがそれは彼が神だからできるのであって、人であるお前たちは別の方法でそれを成すことができるのであるという希望を与えるというところが多分キリスト教の本分なのであろう。げんに人は科学や医学を発展させてイエズス並みの力を獲得してきたし、多くの人の苦しみを取り去ってきたのだ。そう考えると現世界は確かにキリスト教を信仰する西洋社会のモデルによってつくられてきたといえる。

キリスト教の真実は社会科学であった。という事実はますます明確になりつつあることを考えると、じゃあ宗教の価値はどこにあるのか?それはあらゆる人の心に安らぎを与える宗教ということになる。そこで注目されるのが仏教である。もしかすると他の宗教、イスラム教やヒンズー教であるかもしれないがそれらに関して私は無知なので書けないが、ただ仏教は何となく身に沁みついているので、わかりうるもので書こうとしている。
まず仏教はいたって内省的な心を基本として、一人一人の人間の善性の様なものを基本としてスタートしている点で人に自信を与え悟りに導く。つまり仏教は人一人一人の善性を基本において始まっている。だから、あなたは罪人(つみびと)であるというような定義から始まるキリスト教徒とは真逆な宗教である。
仏教は一人一人、その人ならではの心の平安を目指す。いわば、一人ひとりの個性を大事にしているのでその人ならではの悟りの道を探すことを修業と称している。

 鎌倉五山第一位の建長寺の開山である蘭渓道隆は自身の心の平安を目指して修業をするが、修業とは優れた師について教えを乞うことなのだが、優れた師とはあくまで自分の意に叶う師であることが基本にある。蘭渓道隆は「浙に入り、範無準、沖懥絶、簡北礀の諸大老に見ゆ。皆な契う所無し。漸く陽山に届って、無明性禅師に依る。性、室中にて東山の「牛過窓櫺」の話を挙す。隆聞きて省有り」記され、浙江の無準師範、癡絶道沖、北礀居簡に学び、無明慧性のもとで会得したのである。いわば、蘭渓道隆という個人の悟りであり心の平安なのである。禅の世界では一人の心の平安は世界の心の平安につながるという前提があり、かれから学んだ人たちは自分ならではの領域で心の平安をめざすのである。まさに理想的な宗教と言えるのではないか?そして、これはキリスト教や他の宗教と対峙するものではなく、融合するものであると思われる。
 ちなみに「牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)」とは、直訳すると〝窓の下を牛が通る“ということらしいのであるが、わたしには窓から見える牛の尻尾だけを見て、全体を想像できない愚を戒めているのか??真を見極める目を持てというような戒めか??想像力を働かせて生きよ!ということか?悟りを開いていなのでわからない?しかし、鎌倉幕府はこの解を基に蒙古の襲撃を食い止めたのである。
 混沌とした未来は西洋で禅が栄え、東洋でキリスト教が栄えるのである。この二つは極めて相性が良いのかもしれない。
                              2024年1月15日
 
 

Share on Facebook