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Column

高輪消防署

 高輪消防署と聞いて半世紀以上前の記憶が甦った。ここにはお世話になったからである。
「新美の巨人」という番組の録画を家人にお願いして日曜日に二人で観たのだ。当時よりきれいになった建物を見て、家人にいろいろと当時のことを話した。
私はこの消防署からほど近い高輪商業高等学校に在学していた。そして、学友のS君は高輪消防署の署長の息子であったからだ。私たちはそのころボディビルに凝りだして、この消防署の屋上にあったバーベルを持ち上げるために学校の帰りに消防署の屋上にあったバーベルを持ち上げたりして遊んだのであった。
 もうかれこれ60年前のことであり。今回の放送でこの建物は築90年とのことなので、当時は築30年というからそんなに古い建物ではなかったことになる。というのは旧帝国ホテルや丸ビルが現役で存在していた時代だっだからである。建築などには全く興味がない私でも高輪消防署はかっこいい消防署という印象があった。我が家の近くの目黒消防署とは雲泥にデザイン性が優れていたからであった。しかし、当時の私はデザイン云々するような少年ではなかったが、少年らしい感覚でかっこいいと感じたのだ。

 「新美の巨人」では建物の外観、室内などを紹介しているが確かにこの建物は海原に立つ灯台とも、強大な汽船の船橋の見張り台ともいえるような建物なのだ。室内の紹介では、なんと窓のいくつかは汽船などについている丸窓なのである。この建物が造られた90年前は多分、火の見櫓から東京湾の海を見渡せたと思うがまさに物理的にもこの消防署は海原に浮かぶ船に近いものだったのだろう。
 そこで思い出したことは私が入学した高輪商業高等学校の教室の海側の窓のいくつかがなんと丸窓であったという事実である。この校舎を設計した人は多分、消防署を設計した越智 操氏ではないと思われるが、当時の建築家は海が見えるコンクリート製の建物を設計する際には船を設計するようなロマンを持って図面を引いたのではないか?
不確かだが本当にその私の教室の丸窓から遠く海が見えたような記憶がある?
当時から歴史ある学校であった高輪商業高等学校は高台の一等地にあった学校であり、どこよりも早く鉄筋コンクリートの4階建ての校舎を持っており、驚くべきことに当時すべての教室にはスチーム暖房機が取り付けてあった。多分、当時の大きな船のキャビンには暖房用にスチーム暖房機が取り付けてあったに違いない。そうか?!コルビュジェは近代建築のヒントの多くを汽船から得ていたからだ‼

高輪消防署はその後、建て替えの必要が出てきたようなのだが、それが残せたのはどうも高輪の住人の方たちの残してほしいという要請があったからで、あの辺には今でいうところのセレブが住んでいたようなのでその人たちの希望を尊重したらしかったがそのうち歴史的保存建物に選ばれたので今後この街を代表するシンボル建築として半永久的に生き残るのは何ともうれしい。

その後、何年かして高輪白金地区がいわゆるハイソ、セレブとか。いわゆる少し古風な言い方をすれば上流階級が住む街であることに気づいたのである。私は目黒通りの清水町というバス停留所から東京駅南口駅行きのバスで清正公前というバス停で降りて通学したのだが、目黒駅から清正公までの3つの停留場があって、近くから朝香宮邸前、白金聖心女子学院、清正公とセレブを超えた方々の屋敷などがあった。たとえば降車停留所であった清正公前では降車口の前はどなたかのお屋敷の前であり、その家と思しき塀の長さから察すると当時のセレブは現在のそれと比べると桁違いのレベルである。その向かいにも大きな屋敷があり、そこはそれから何十年後か忘れたが確か都ホテルが建設された。そして、白金の坂をあがった手前には立派な車寄せのある邸宅があった。表札は「藤山」で、それは外務大臣の藤山愛一郎の家であった。そしてその裏には大久保彦左衛門の屋敷がありそれが現在の八芳園になっていた。
記憶が不確かであるが現在都ホテル?のあった場所に絵にかいたような洋館があった。後でそれはイタリア公使館の自邸?であることが分かったがそれは・それはそこは日本ではないような風景を見せてくれたものである(ポーのアッシャー家のような?)・・・
・・それらの風景はあまりに絵に描いたような風景なので自分の記憶が恣意的に思い描いただけの様な気がしてしまう!(netで簡単に調べても出てこないので思い違いか?)もう少しその屋敷を詳しく書くと目黒通りには面してはおらず、少し奥まっているところに屋敷があった。ただ、バスの中からその屋敷は見えた―しかし、人が住んでいる気配はなかった。正確に言えることは清正公前から目黒駅の間の目黒駅に向かって左側にあった。

 最初に戻る。高輪消防署の前の道を三田の方に向かうと右側に高輪商業高等学校の裏門があるがその少し手前に虎屋がある。当時からなぜこんな辺鄙な場所にこんな立派なお菓子屋があるのかわからなかったが、今から考えるとこのあたりに住んでいた上流階級の方々を顧客としていたのであろう。今では赤坂見附から246を挟んだ豊川稲荷の向かい側あたりに東京の本店があるし、現在なら本店に行かなくともデパ地下で虎屋の羊羹は買えるのだから・・・?しかし。この京都から天皇と一緒に東京に来た老舗は高輪や二本榎に住む顧客に対して少なくともそこに居続けるという伝統の証として高輪の店を存続させているのかもしれない。
                            2023年12月11日T.I

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