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Column

いろいろあった先週は

数日前に喜寿の同窓会が開催された。中学校の同窓会で半世紀以上よく続いていると思った。それはこの同窓会を続けさせようと思っていた人物がいたからである。一般的に公立の中学校同窓会などを続ける理由が見つからないと思うのだが、ましてその中学校はすでにこの地上から消えてしまって(廃校)から10年以上もたっているからである。
 私はその日に伝えたいことがあって、欠席するわけにはいかなかった。当時の担任の先生が昨年末92歳で亡くなった、その報告をするためだ。考えてみれば先生とはその後、半世紀にわたり年賀状や手紙などで細長いつながりがあったからだ。
 今はあるかどうかわからないが、その先生は職業・家庭科という科目の先生であった。したがって、その授業は週に一時間くらいしかなく、週に4時間くらいある国語、数学、理科、社会、英語に比べると極端に少ない授業なので、それを教えている教師とはなじみが薄くなるのは当然である。ただ私の場合、彼は3年間私の学級の担任の教師であった。
 職業・家庭科と言うのが男子生徒は製図の初歩を学び、丸鋸などの大工道具やペンチやニッパーなどの道具の使い方を覚え、最終的に鉛筆削り箱などを作って終わった科目であった。ただ当時、先駆的科目の試みだったらしくよその学校の先生方が見学に来て、そのたびに何度か駆り出された。
 しかし、これは偶然だがその後、私はデザインスクールに入り、工業デザインを学んでH社に入ったことで先生は私を自分が教えた授業を職業にしたという縁でその後のつながりのきっかけになり、先生の授業に役立つような情報を提供した。たとえば完成予想図であるレンダリングや様々な製作図面などを見せて説明したのであった。それらは中学生には魅力的な教材になったようであった。
 その後、私はデザインの世界から離れて、マーケティングやブランド戦略などの仕事をすることになりここで20年近い研鑽を積み最後にある著名な学校のブランドマーケティングの仕事をすることになった。このプロジェクトで先生から聞いた話が基本戦略を立案するにあたりだいぶ役立った気がしている。たとえば教師の本音と言うようなものと学校の方針というモノの違いや差をどうとらえるかというようなことである。今から考えると学校では3年間の付き合いしかなかったが、卒業した後は60年の付き合いがあった先生であった。

 それにしても公立中学校で60年続いた同窓会ということは快挙のような気がしないではない。しかし今回出席してみてこれが最後のような気がしないではなかった。というのは会の運営母体の人たちが加齢のためいろいろ支障があることを今回感じたからだ。
 たとえば慶應義塾などは卒業生単位のクラス会のほかに地域単位のクラス会などがあるようで地域単位であると、生きのいい若い卒業生が会を運営するからまあ、運営に支障がなくミスマッチなどが少なくなるのであろう。この辺りは公立中学校と慶應義塾と言う母校の差、参加者母体の違いが運営の上手下手の差になるのかもしれない。いずれにしても何となく最後の同窓会と言う現実を目の当たりにして一時間以上かけて家に戻った感があった。
 
 いろいろあったもう一つは現在執筆中の小説「光悦はばたく」の進行で窮地に陥ったことだろう。この本、実は始まりが伝説と言われているのだが、200年後の室町時代くらいに入ってくると歴史的に年代がはっきりしてくる。たとえば伝説部分における人物の寿命は当時の人の平均寿命をもとに割り振るのだが、それが200年間にもなると現実と合わなくなってくるのである。具体的には本阿弥家の人達である。最初の5名は神話の人だが6人目からはある程度、出生年、死亡年が分かっている人になる。そこの間で数字が合わなくなる。鎌倉時代に生きた始祖は103歳まで生きたらしいが、その後の後継者はどうなのだろうか?立て続けに100歳以上の人がその家系に生まれるわけはない?そのあたりのその家系の特有の寿命を勘案して時代を降りてくるのがいいのか?平均寿命が50歳以下の時代に103歳まで生きたなんてありうるのか?決定に躊躇するようなことが多くなるのだ。
 
                               2024年4月8日

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