2023年後期の取材旅行は12月の二週目を5日間費やして実行した。いつもより1日多いのは奈良が加わったからである。本来、1年前に行かねばならなかった取材だったのだ。
したがって、この取材旅行は現場を見ないで書いたことを確認しに行った部分25%のための取材旅行であった。助手である家内の言では肝心の東大寺は見ないで東大寺の周辺のあまり人がいかないところを6か所も回った珍しい東大寺観光だったのだ。
ルートは三条小鍛冶宗近→手向山八幡宮→三月堂→二月堂→寺宝院→正倉院→転害門の七か所であり、それが東大寺領内の周辺に並んでいるのであったが、有名なのは二月堂と正倉院であろう。領内は歩いてしか動けないので仕方がないが、問題は三条小鍛冶宗近である。少し歩くうちに最初に向かう道が分からなくなり、かなり遠いことが分かってきた。最初でバテそうだ?ということでタクシーを探す。意外と早く捕まえて、三条小鍛冶宗近というと“お客さん、そんなところ知りません”との言で別のタクシーを探す。10分くらいして捕まえ、後部座席から三条・・・と言うと。しばし考えて、“鍛冶屋さんでんな?”
この三条小鍛冶宗近とは刀剣女子なら泣く子も黙る伯耆安綱と並ぶチョー有名な刀鍛冶なのである。この鍛冶は京都の鍛冶だったが何代目かで京都から奈良に居を移したのであり、できたらその時期を確認したかったのである。答えは「応仁の乱」であったことを店の人に聞いて納得した次第で、現在は包丁などを売る店を中心にお土産物を売っており、奥では修学旅行生の食堂も併設しているようであったが、家内が記念にここで三条小鍛冶宗近の名が入った包丁を購入する。
そこから数分も歩くとメインの目的地手向山八幡宮。ここは以前、東大寺の鍛冶であった千手院鍛冶があったところであり確かにその場所にあった「刀祖千手院跡」の大きな石碑を拝む、もちろん神社にも。そして、鍛冶があった場所や鍛冶場や住まいを想像する。
次は二月堂だが左回りでは三月堂が先に来る。ここには有料の展示室「法華堂」がある。
このお堂をはじめ三月堂は東大寺に残っている最古の建物で天平五年(733)の創建である。その内陣には10基の仏像があるがすべて国宝であり、乾漆造りゆえか大理石像のような印象を与える。一室に佇む仏像は強烈なオーラを放っていた。
次の三月堂は大仏並みに有名らしくテレビで見た「お松明」はどうも世界中で有名らしい。木造寺院でそれをやるのだから命がけだが、寺が一度全焼したのは1250年間で1度だけである。
次の寺宝院は私の小説に出てくる現存する塔頭だがその機能を東大寺の宝物を管理しているとしたがこれはそのネーミングがいかにもそれっぽいのでそうしただけで現実は不明である。だが、一番、正倉院に近いのでそこの管理事務所であってもおかしくない。
正倉院は一度見てみたいと思っていたがその外観はそれだけで価値があった。それはこの中に国家の宝物があるからというだけではなく、その外観が人間に与える厳かな存在感である。それは寺院以上の寺院性を感じさせるものであった。
最後の転害門は東大寺の玄関として有名な門で八本の支柱の一本は創建当時のもので、野外の風雪に1200年近くさらされたおかげで木の節が固いので瘤のように出っ張って残っているのには何とも言えない感動を覚える。この門は京都に通じる門でもあり、若き俵屋宗達が師や母と別れて新たな世界に向かう出発点でもあった・・・「宗達はじまる」より
その夜は皇室御用達ホテルの奈良ホテルに宿泊したのだが生涯忘れられない体験をした。
翌日は元興寺とナラマチを見る予定であったが元興寺だけに行く。元興時は蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が平城京遷都に際して新しい寺である元興寺を建立したのである。天皇が遷都すると新しい寺を建立するという決まりがあるからで、これまでの藤原京にあった法興寺は飛鳥寺として現在も見ることができる。元興寺には日本に仏教を導入した聖徳太子の像が祭られているのでいかに歴史がある寺なのかが分かるというモノである。
天気が怪しいので早めにチェックアウトをして京都に向かう。一時間で平城京から平安京に着く。これから奈良は宿泊をせずに京都から日帰りで動くことにする。
京都では買い物と取材に追われてしまった。取材の目的は現在の本阿弥屋敷跡あたりにあった7軒の本阿弥屋敷の中のどれが本阿弥光悦の住まいなのかを特定することだった。現場を歩いて近くにあった京都市考古資料館で屋敷の場所の確認をする。というのは地図が寛永後萬治前(1624~1661年間)の洛中絵図だからである。
京都市考古博物館の学芸員は私の見立てよりもっと東に寄っているとのコメントをしたが目星をつけた屋敷の位置は正しかったようであった。その判断に合点がいかない私は次の日に今度は京都市歴史資料館に再確認に行く。そこでは私の見立て通りであったことが分かる。特に白峯神社のあった場所はかつて飛鳥井家の屋敷であることが確認されたからであった。というのがそれは狩野永徳が描いた上杉本洛中洛外図とも一致していたからである。
7件ある本阿弥屋敷の中で一軒だけ離れた屋敷が西陣の中にあるがそれが光悦が生まれ育った屋敷なのではないかと思われた。というのはこの家の周りは西陣の工房が軒並みあったし、また、その屋敷の隣は観世大夫の屋敷であり、いわゆる一種の芸のエリアであったからだ。孟母三遷。私の仮説はどうも当たり!らしい。まあ、バスを乗り違えて歩いてしまったが今回の取材旅行は収穫が大きかった。また、歴史資料館は自由に珍しい図書も見ることができるので良いが、残念なのは資料の撮影ができないことである。
2024年1月1日 泉利治
★明けましておめでとうございます。
本年も「慎慮と洞察」をよろしくお願いいたします。