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Column

杉本寺

 鎌倉に住んで30年以上たつが一番困るのが鎌倉を案内してください、とお願いされることである。確かに観光地なので案内するところはたくさんあるのだから、そうでないところに住んでいる人よりは、まあいいのかもしれない。
 人を案内するには相手がその案内に何を期待しているかを知る必要がある、そしてもう一つは時空の制約。案内する時間がどのくらいあるのか?それによって足が決まる。徒歩で案内するか車で案内するか?・・・あと、考えるとしたら天候は、そして季節は?

 一昨年、同世代の親戚を案内することになった。その時は総合的に判断して、一日目の午後遅い時間に着いたのでその日は車で円覚寺、鶴岡八幡宮、高徳寺大仏、その夜は鎌倉華正樓で食事、そして宿泊地は七里ガ浜プリンスホテルで一日目は終了。翌日は午前中江の島、そして昼食が我が家でというコースであった。
 鎌倉は狭いと言っても歩くとなると結構大変である。最近はこちらも歳をとったので円覚寺から鶴岡八幡宮まで歩くのは一苦労である。だから自動車を利用する。しかし、これすらもその日のよる、シーズンの休日なんかはありえない方法になる。
 
そして2度目の鎌倉を案内する機会に恵まれた、恵まれたというより遭遇したという感じか?彼女は前日の夜に鎌倉について、2日目が案内の本番であった。一日目から考えないといけなかった。まずホテルは?運よく昨年10月若宮大路に面して、鎌倉駅から徒歩5分のところにホテルメトロポリタン鎌倉がオープンしたのでそこを薦め、夕食は駅の近くにある有名なイタリア料理店とした。満足であったろうか?
 彼女の場合事前にラインで鎌倉のどこを見たいか確認したので2日目は楽だった。というのはそこを中心に組み立てればいいからだ。二つの希望があった。まず杉本寺に行きたい、長谷寺で写仏をしたい。しかし、その2か所に連れて行けば事足りるというわけではない。この2か所は鎌倉駅をはさんで真反対にある。全部徒歩は不可能。ということでまず鎌倉駅からバスで杉本寺まで行き、そこと浄妙寺を見て、歩きで鎌倉宮、荏柄天神社、頼朝の墓などを見て、鎌倉駅まで歩き、そこから江ノ電で長谷まで行き長谷寺に行く。
 計画は万全であった。ただ問題はその観光対象について私が何も知らないことであった。鎌倉に住んでいながら意外なほど鎌倉について知らないのである。
杉本寺は鎌倉で一番古い寺院である、その位しか知らない。どのくらい古いかも知らない。多くの寺は頼朝が幕府を開いた後に建立されたのだが?
 しかし、杉本寺に行ってその素晴らしさに驚いた。山裾にあるその寺は小さいがゆえにその景色に違和感なく溶け込んでいた。屋根はなんと茅葺屋根なのである。小さな境内には苔むした小さな五輪の塔がたくさん並んでおり、それはかつての化野念仏寺の石仏のようであった。こんなに小さな五輪の塔がこれだけあるのにはどのような由来があるのだろうか?
 何といっても寺のたたずまいが素晴らしい。これだけ風景と一体になった鎌倉の寺を見たのは初めてだからだ。軒下に貼られたな昔の無数のお札群も何とはない古さを感じさせているから不思議である。そこに至る階段は現在は使えないのだがこれがまたいい、創建は天平六年(734年)なので仕方がない、苔むしたほとんど段が消えてスロープになりつつあるその階段は信じられないくらい古風というより、古代を感じさせる。
 鎌倉にありながら奈良時代のこの寺の由来を書いた紙片を観覧料と引き換えに頂いたがそこにはこの寺を開いた人が行基であることが書いてある。行基は河内の人なので大阪には由緒がある寺が多い。調べると杉本寺は藤原房前と行基が光明皇后の命によって建立したとある。しかし、こんな辺鄙なところの寺によくぞ皇后が着目したのか?そのあたりを考えることは興味深い。古代における意志決定プロセスである。
 その由来をその通りに考えると藤原房前と行基は734年に奈良から遠く離れたこの地に来たと思われる。まず、734年の鎌倉を想像できなかった。そのためにこの3人の人物について調べてみようと思った。
 まず、藤原房前。この人物、始めて聞く人物だが、かの藤原鎌足の次男で政治的力量は
兄弟の中でも随一とある。太政大臣で贈正一位にまで上り詰めたが、若い頃、東海道、東山道の巡察任務を担当していた。そんなことから当時、蝦夷征伐に関した様々な仕事を担当して、一地方である鎌倉にも何かと足を運んだのだろうと思われる。その間、仏教の伝道に勤しんでいた行基と出会うことは十分にありうる話である。そこで光明皇后のミッションである堂宇を建立したのだろう。行基はそこに自ら彫った十一面観音像を安置した。
 杉本寺は金沢街道沿いにあるがこの街道は今でも細い一車線道路だがこの道を通って金沢、六浦に出て、そこから房総半島に船で渡るというのが奈良時代の東海道であったようだ。という意味でかなり昔から杉本寺界隈は開けていたので、多くの人が通ったと思われる。したがって、藤原房前と行基がその道すがら出会ったということは大いにありうるし、この両人、当時から著名な人物同士である。光明皇后の御願もある。そうでなくともこの川沿いの道に住む村人のため、この道を通る旅人のために寺を建立することになったのであろう。
 その後、僧円仁が851年に、そして986年に僧源信が同じ十一面観音像を刻みそれぞれ安置した。というから、この界隈はそのようなことを必要とする何かがあったのだろう。それは鎌倉幕府が開かれる200年以上前も昔のことなのである。そんなことを考えると毎月2回開帳される御本尊の十一面観音を見たくなった。毎月1日と18日らしい。
                                    泉 利治
2022年1月10日
 

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