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Column

鬼滅の刃と鬼切国綱

 この漫画のおかけで刀剣ブームが来たらしい。刀剣マニアと言う人たちはごく限られた人たちで主にそこそこの年齢のいった男性に限られていたような気がしていたが、そのすそ野を広げてくれた。先日、鶴岡八幡宮の名刀展に行ったが若い女性が展示された刀剣の刃紋を視線を変えながら、目線を変えて真剣に見ていた姿が忘れられない。

昔、剣道場に通っていた頃、竹刀稽古の欠点は丸い竹刀には刃がついていないので一本を取るにあたって、その一本の竹刀の刃筋が通って相手を切っていないと一本にしないということがよくあった。 
しかし、初心者にはそのあたりが分からない、何となく当たれば一本という感じだったので、心の中では“今のは一本のはずだ!”などと勝手に思ったことがよくあった。
それは稽古でも同じで、稽古をつけてもらった西東先生からは今の打突ではかすり傷にもならないよ!と言われた。先生は居合の達人でもあり、特にその点は厳しい気がしたものである。
 そんな昔の記憶が少しは役立っているのが現在執筆中の「光悦はばたく」である。この小説は本阿弥光悦を中心とした本阿弥家の一代物語で本阿弥家が生まれた1250年くらいから現在までの770年間の物語である。プロの作家ならこんな破天荒な小説を書くということはないであろう。だいたい、売れるわけがないからである。それにそれを書くにあたっての材料集めが大変で、770年の歴史小説などまともな作家なら思っても手を付けることはないであろう。
 書いていてとくに面倒なのが刀剣カテゴリーの知識である。この世界は実体として、刀剣と言う代えがたい、実体が残っていながらそれに関するソフトが極めて曖昧であるという点である。と言うのはその刀剣の確実なデータとは優れた刀剣ならば、著名な人物に捧げられたか、愛用したという事実と特徴的な曰く、くらいしかなく、その他はその刀剣のスペックを語るぐらいしかないからだ。
 その曰くはとくに語られる場合が多い。たとえば粟田口国綱作の「鬼切国綱」などはその象徴的なもので執権北条時頼の愛刀と言われ、
・・・五代執権北条時頼が毎夜出てくる鬼に苦しめられて、困り当てていたところその鬼を退治するための刀が錆びて使い物にならないので役に立たないというお告げがあった。それを知った時頼はその刀を拭いに出して綺麗にして枕もとに立てかけて置いたら、朝までぐっすり眠れたという。朝、枕もとを見ると国綱の刀が抜かれており、その傍に火鉢の鬼を模した鼎の一つが切り取られていた。その鬼が時頼を毎夜苦しめていたのだ・・・
 この鬼切国綱は宮内庁の御物となっており、滅多に見ることは出来ないらしいが、この手の曰くが名刀にはいろいろあるらしい。
私が書くのはそちらの関連の話ではなく、それを作った粟田口国綱と本阿弥家の創始者である五条長春の物語から始まる、歴史巨編?であるが鬼滅の刃の作家ほどの想像力がないために、歴史的な事実を拾い集めて、乏しい想像力で接着をして物語を書いているのが現状なのだ。
 このような小説は一度中断するととんでもないことになるというのが本考のテーマなのである。私のようなアマチュアの物書きは大きな構想の下に物語を紡いでいくのではなく、いわばタコ足配線のように一つ一つのイベントに合わせて資料をまさぐり、書きつけていく方法で作業が進むのである。
 ただ、悲なしいかなそれぞれに書いたものは時間がたつと忘れてしまう。したがって、毎日毎日、書くことによって記憶が維持され、物語に連続性が生まれるのであるが。そのことが半年も中断するとどうだろうか?極端に言うと自分がそのようなものを書いていたという記憶はあるがその内容などはほとんど忘れてしまうのだ。

 私は丁度一年前に別件の仕事をやる事になり、一年間「光悦はばたく」のプロジェクトから離れていた。そのプロジェクトが終了し、今年の7月くらいから書き始めようと思ったが、自分が書いたものでありながら、まったく取り付く島もないことに気づいた。記憶も情熱も失われていたのである。
 文章を書き始めるとノッテくるのだが、失われた半年は大きかった。その間、私はアメリカの大学の仕組みや歴史を研究していたのである。おかげでその為に購入した本は12冊が目の前に並んでおり、数か月前まで目の前に貼ってあった刀鍛冶の作業プロセスを書いた紙がどこかにしまい込まれ、これまで書いたものなどは自分の書いたものながら理解不可能であった。しかし、その貼ってあった作業プロセス表すらもどこかに隠れてしまったので探し出せない。
 私はまず、既に出版した第一巻である「地の巻」を読み始めることからとりかかった。この作業は記憶をあらたにすると同時に誤字脱字や文章の読みにくさをも解決する良い作業であった。それにつれて、片づけた資料なども徐々に探し出せてかつての身辺が再現されつつある。

こうなった、理由の一つは加齢で記憶力が弱くなったことも大いに関係がありそうだ。ともかく思い出せないことが多くなった。
まあ、救いは思い出そうとしていることがはっきりとしていることぐらいだろうか?だから、スマホに思い付くような関連した言葉を入れると思い出したい概念が出てくるのである。ネット検索は私のような認知症が顕在化してきつつある世代のためにあるというようなありがたい道具のような気がしているがどうだろうか?
                                   泉 利治
2021年12月13日

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