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Column

元三大師

 科学万能の世の中に元三大師のお札はないだろう?ということなのだが、この度のコロナ騒ぎを考えるとその科学万能も何とはなくそんなに強大な力を持っているとは思えなくなった。また、世の中には科学では説明できないことが跋扈しているから面白い、と言うより怖ろしいと思うのは科学と法力の双方を信じている私の本音である。
 しかし、結局は科学が勝利したではなか?お前だって科学の御利益であるワクチンを打ったお陰で元気でいるではないか?と言われるかもしれないが、ここまで来るのに世界でどのくらいの人の命を奪ったのかを考え、その命の重さを思うと科学だけではやはり頼りない気がしないではない。
 
 私が元三大師を知ったきっかけは思い出せない。その理由はその法力がかなり効き目がある、ファイザー製もしくはモデルナ製並みに?ということから京都に出かけたらそのお札を求めようと思ったのである。
京都に行くとそのお札を薙刀鉾の粽並みに見かける。粽はいわゆる幸を呼び込むためのものであるが元三大師は完全に厄を防ぐためのお札である。この二つが玄関先に立てかけたら万全この上ないという、優れモノのセットで京都では玄関先には粽を、玄関の中には元三大師のお札を張っているのをよく見かける。
 お札の効力とは前記した「法力」を指しているがこれは意外に効果があるものである。私はこんな体験をした、母が亡くなって納骨をするまでの百日間、自宅で供養した。ところが何日かして眠れなくなった。理由は丁髷を結った何人もの男たちが毎夜、夢枕に立って寝不足になってしまったのである。別に怖いということではなかったがこの寝不足は仕事に差し支えたのであった。その頃、私はデザイナーとして一つのプロジェクトをエンジニアとペアで取り組んでいた。そんな時、その寝不足とその理由をエンジニアに話したところ、南無阿弥陀仏と書いたお札を枕もとに貼っておくとよいと言われたので、墨を磨って、拙い文字で半紙に南無阿弥陀仏と書いて貼ったら、本当にその丁髷を結った人たちは来なくなったのである・・・・後日談だが、それから40年後、私はその人たちが気になって行方不明の父方のお墓を何年もかけて探して、熊本に出かけることになった。
 お札とは単なる気休めでも何でもないというのが我が人生での体験であり、それを必要とした理由がどうみても人の死に係ることになると科学の力ではどうにもならいというのが私の体験的智慧の一つなのである。
コロナ禍で私が元三大師のお札を頂くのが遅くなったことに少々焦りがあったのには訳があった。以前に我が家に連なる家々を見舞った不幸のことを書いたことがあったが、それが現実化したのが前々回の忌中ということであったのだが、その考にはそのような伏線があったのだ。それを冗談で済ますには相当の覚悟と度胸がいる。なぜならば、それは数年前に思った通りになってきているからだ。科学万能な時代でありながらなんとも疎ましいことである。多分にこのようなことに鋭敏な性格ということもあるのかもしれない。

 元三大師とは一月三日に入寂したので元三大師と呼ばれている。延暦寺の中興の祖と言われている師は平安時代の天台宗の僧であり、名を良源といって西暦912~985を生きた名僧であるが、私に言わせれば延暦寺を復興させるためにいわゆるCIならぬTI(Temple Identity)を活用して、貴族や権力者のための延暦寺を一般大衆のための延暦寺にした名僧なのである。たとえば私が頂いてきた角大師のお札は疫病で苦しんでいる民衆のために自分の姿を描かせた絵を版木に磨ってお札にしたというのが始まりである。それは延暦寺のメインターゲットを一部の金持ち貴族から、ボリュームゾーンである大衆にシフトさせたことになる。さしずめ延暦寺はそれまでロールスロイス社のようなものであったが、良顕がトヨタ社に変更したということになるだろう。
 元来、延暦寺は京都の北東にあり都の鬼門除けの寺であったが、それがどんな人にも分け隔てなく一人ひとりに御利益があるようにしたことになるのであろうか?宗教は人が最後に頼るものなのだろう、何もかも信じられなくなった時にそこに行くのだ。
Net時代になってどんなことでもわかる時代になったが自分の命のことや自分の心の命など本当に知りたいことに無力である点において良源師が健在だったころと変わっていないのだと思うこの頃である。

京都から戻り年末に鎌倉でもいくつか見たい催しがあって、自転車で駆けずり回った、
まず、「鶴岡八幡宮の名刀展」、そして、今日5日に久しぶり建長寺の「宝物風入れ」に行く。宝物風入れとは建長寺にある寺宝の虫干しで毎年11月3日前後に実施される。無料で建長寺の宝物を見ることができるのはありがたい。学芸員にあたる寺僧が丁寧に説明してくれる。建長寺は鎌倉五山の第一位であるがこの寺がおおらかで優しく感じるのは開山の蘭渓道隆師のDNAが800年経っても生きづいているからなのではないかと思う。
 帰りに蘭渓道隆こと大覚禅師が持参して植えた柏槙を見に近くに行くとその根元は幅5メートルはありそうだった、樹齢860年経つと書いてある。高さは低いが堂々としたその木は日本に根付いた禅のように思えた。
 建長寺で「間島弟彦と黎明期の鎌倉国宝館」という特別展が開かれているのを知る。間島弟彦とは青山学院出身で鎌倉に暮らした経済人なのだろうが?青山学院などへの多額の寄付をしたことを以前知ったが、やはり鎌倉市にも同じように貢献をした人らしい。週明けにでも国宝館に行ってみよう。
                                   泉 利治
2021年11月15日

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