ブランドワークス

Column

二人の内親王

 奇しくも緊急事態宣言明けに京都に行くことになった。一年近く前に予約していたホテルが生きていたのである。予約の確認にホテルから電話が来た時に京都の様子を聴くと徐々に人も戻って来て日常を取り戻しつつありますとの話であったが行ってみると想像していた風景ではなかった。御池通りと河原町通りに面したホテルから見て気づいたのが通りを走る自動車の量が信じられないくらい少なく。通常、真夜中でさえ聞こえる救急車の音も聞こえず、自動車もほとんど走っていない。と言うのは私たちの部屋はいつも同じで15階にあるので市内は勿論その二つの通りがジオラマを見るような風で市内を一望できる部屋であるからだ。
 今回の京都行きで是非とも訪ねたかったのは式子内親王の墓を見たかったのである。
以前、上七軒、北野天満宮に行った際に旅行案内書の片隅に学校の校庭に面した所に式子内親王の小さな墓があるという記述を読んだが、私はこの人物がどのような人が知らなかったのだが、その場所が探せなかったことで何となく気になっていた、それだけのことである。ただ、内親王と言うからにはそれなりの人物である人が学校の脇の校庭が見えるようなところに葬られているには何らかの理由があったのだろう、というなんとはない悲劇性を微かに感じたものであった。
 今回改めて調べてみるとこの人物は女流歌人としては歴史に残る人物で小倉百人一首にも彼女の句が選ばれている。藤原定家が編纂した小倉百人一首には21句の女流歌人の歌が選ばれているがその中にはメジャーな人物、小野小町、紫式部、和泉式部、清少納言などの歌もあるがそれらの人物に比べると知られていないので、なぜそんな彼女の墓に行きたいと思ったのかは分からない。
 
また、その後、「百枚の定家」という本から定家について興味を覚えたこともあった。宮中で暴力沙汰を起こした歌聖になんとはない親近感を覚えた。その定家が思いを寄せていたと思われる?彼女にも同じような親近感を覚えたのかもしれない。
 今回の京都で私たちは二人の墓を詣でることになったがこの二つの墓に関してはオーソライズされたものではないらしい。因みに定家の墓は相国寺に伊藤若冲、足利義政と並んであるので、かなり眉唾物である。と言うのは藤原定家が亡くなったのは相国寺が開山する以前であったからだ。それにその三人の墓が同じ囲いの中にあるというのも現実味がない。
それに比べると式子内親王の墓は小さな五輪の墓で何とも工事現場の脇にあるような土盛りの天辺にあるのだが、それを囲んでいる朽ちた石仏たちが何ともこの内親王の存在に一種のリアリティを与えている。こんな場所なので内親王の墓に纏わりつく蔓を定家蔓と呼ぶようになったのだろう、そんな話も式子内親王の墓を見てみるとリアリティを持つ。

式子内親王は後白河天皇の妹であり、それゆえ内親王と言う肩書が付けられた。内親王という肩書は本来天皇の娘及び姉妹にしか与えられなかったのだが、明治になって皇室典範が緩くなったようで、今、話題の眞子さんのような立場の人も内親王と呼ばれるようになったようである。この二人の内親王の唯一の共通項はその立場が与えた独特の宿命が生む悲劇性であろう。
しかし、二人の悲劇性の質はかなり違う。眞子さんのそれは何とも週刊誌的だが式子さん(これはどうものり子さんと読むらしいが)の方は皇族ならではの悲劇の香りを感じてしまう。式子内親王はまず、生涯独身を通し53歳で亡くなったが、独身を通してということで、女性にとっての結婚=幸福という単純な図式に焦点を当てて考えることを一応の目安としている。
眞子内親王の場合、結婚の相手の選択による悲劇が事の発端であるが式子内親王の場合はそれすらなかった悲劇である。そして、眞子内親王の場合、実現するために一言で言うと強行突破をした。その方法はまさに強行という言葉がふさわしい方法であった。そのお立場を最大限に利用してそれを成し得たので、私は彼女がいわゆる犠牲者であるとかのような擁護する気は一切ない。
式子内親王は天皇の妹と言う立場から加茂神社の斎院を体を壊すまで10年務め、その後は母や叔母の下で31歳まで暮らした。叔母である八条院を出た理由が中世ならではの理由で、叔母である八条院とその猷子の姫宮を呪祖したとの疑いをかけられて、叔母の家を出ざるおえなくなり、父である後白河院の同意を得ないまま出家をする。その後、父が亡くなった際に遺産として受けた屋敷を九条兼実に横領されて住むことができなかった。その後、蔵人夫婦の託宣事件に連座したと疑われ追放の身になりかけた。後に順徳天皇になる親王を猷子にとるというチャンスも生まれたが、病のため実現しなかった、41歳の時である。
その後、後鳥羽上皇の求めに応じて歌を詠み、藤原定家に見せている。指導を仰いでいたのだろう彼女は百首ほどしか作っていなので決して歌人と言われるほどの人ではなかったかもしれないが、その歌は小倉百人一首にも選ばれて、女流歌人の最高峰としてわれわれは知ることになる。
 玉のをよたえなはたえねなからへは 忍ふることのよはりもそする
【現代語訳】我が命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き長らえていると、堪え忍ぶ心が弱ってしまうと困るから。
恋歌である。53年の生涯で恋をしないはずはない。しかし、それは叶わなかった。しかし彼女は歌という方法で強行突破した。百首という少ないながら名歌が多い。彼女の強行突破?はどれだけの人の心に多くの糧を与えたか分からない。
 二人の内親王の間には1000年の時間があるが、その立場の人が抱えている宿命にそんなに違いがないことに驚かざるをえない。最後に、もし、藤原定家との恋があったとしたならばそれは彼女にとって唯一の希望だったに違いない。
                                  泉 利治
2021年11月8日

Share on Facebook