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Column

リベラルアーツ論

 一月前の本考にLiberal Arts and Sciences Educationというタイトルでリベラルアーツについて書いた。本考はその続きにあたるかもしれない。というのは前回リベラルアーツについて周辺はわかっていても、正直、いわゆる体感した感じがなかったからだ。
 昨日、その輪郭が分かったきっかけはカーネギーメロン大学について調べていた際に、この大学の教育技術に関する記述を読んだ際に分かったのである。因みにこの大学はアメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーが起こした大学でどちらかと言うとその校是とも言うべき言葉通りの実業に関することを学ぶ大学になるからだ。
 とは言っても専門大学ではなく、基本中の基本でありリベラルアーツについての教育でも優れた実績を残している。というのはこの大学のリベラルアーツの教習プログラムは組織学の分野でノーベル経済賞を受けたハーバート・サイモンらがつくったからである。
 日本の大学が今頃リベラルアーツ教育について叫び出した背景には文科省の指導力の問題があった気がしないではない。たとえば、私がリベラルアーツ教育について知ろうとした時、その説明のための日本語訳が“教養教育”であり、これがまず、リベラルアーツの誤解の始まりであった。
 調べてみると最初は一般教育と言っていたのが、もう少し特徴的な意味を付けくわえたくて“教養”という言葉に変更したのであるが、教養と言うと余計なことまで考えないといけなくなるし、どちらかと言うとお飾りのような教育のイメージが付きまとう。
 私などはリベラルアーツという言葉から入ったので字義通りに解釈しようとして、自由七科の文法学、修辞学、論理学、算術、幾何、建築、音楽ということに想像を巡らして考えたものであったが、その方が文科省の役人が考えた解釈より、真実に迫っていたようであった。ギリシャ人やローマ人はこの七つが偉大な学問であり、その共通の事柄こそがリベラルアーツのであるということを教えたかったのだ。
 
私はそれを学んだ人間がいないものかと考えた。行き着いた人物がバートランド・ラッセルである。このノーベル文学賞をもらった伯爵は確かにピュアリベラアーツ教育を受けたのである。
 我が家の本棚の最上棚にある「バートランド・ラッセル著作集」を片っ端からめくり、挙句の果ては鎌倉中央図書館の地下倉庫から「ラッセル自叙伝」を借り受け、教育に関する記述を調べた。わかったことは、かれはいわゆる学校に入っておらずケンブリッジ大学に入学したのである。
われわれの感覚から言うと幼稚園、小学校、中学校、高校で受ける教育のすべてを家庭教師から学んだのであった。まあ、確かに貴族であるので屋敷が田園の中にあるのだから、かれにふさわしい学校に通うのはまず無理であったのであろう。
 ラッセルの「教育論」を読んだ限り、スイス人とドイツ人の家庭教師は優秀であったようだ。あのように知識に対する愛好心の高い人間は見たことがなかったからだ。たとえば、地理嫌いのラッセルに対して男の子なら誰もが好きな汽車や船を介して世界を旅するラッセルを主人公にした物語を通して地理を教えたというから、凄腕の教師を超えて神懸っている。ラッセルのそのことを「教育論」で書いている。同じように数学を教えるにはどうしたらよいか、年齢的にはどのくらいなら、どのあたりまでと具体的に書いているのだがその内容は自身の体験をもとに書いているようである。100年近く前に書かれた教育論だが、それは見事までに本質的である。
 ラッセルの家庭教師が15年間で何人いたのか分からないが、当初は一人の教師がほとんどの科目を教えたのだろうが、ケンブリッジに入る前の頃になると専門科目の教師が数人がかりで対応したろうと思われる。ラッセルの著作をザっと見た感じではラッセルは自身が受けた教育法に関しての詳しい記述を探し出すことが出来なかった。
ただ、結果から見ると真のリベラルアーツ教育を受けたという印象を持ったのである。簡単にいうとリベラルアーツ教育の本質は地頭を良くする教育なのではないかと思っている。つまり、知識を与える教育ではなく、知慧を与える教育である。その象徴的な話が、アインシュタインが相対性理論を発表した当時、そのことについて正しく理解している人は世界に二人しかいないと言われた。アインシュタイン自身とバートランド・ラッセルその人であることは有名な話である。それは、ラッセル自身がケンブリッジ大学の学生に対して相対性理論を理解するための有名な講義を行ったからである。
当時、世界には並みいる学者がいたと思われるのだがそれをしても相対性理論はむずかしかったのであろう。それは多分に自身が理解できても人に説明するのはむずかしかったのであろうと思われる。ラッセルは数学の天才でもあったのでアインシュタインの方程式からその本質に到達したのであろうが、それ以前に真のリベラルアーツ教育を受けてきた彼ならではの頭脳の冴えがあったような気がしている。

リベラルアーツ教育とは知慧を学ぶ教育である。というのがここ半年間、それについて理解した一つの見解であるが、いま日本の多くの大学をその価値にようやく気付き始めたようではあるが、本来、これは知識として身に着けるのではなく、体質として習慣化できなければ意味がない気がしないではない。それから考えると小学校のころから何らかのリベラルアーツ教育を行った方が良いだろう。これは体質化した方がイイ結果を生むからである。
                                  泉 利治
2021年6月7日

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