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Column

アメリカの大学

  大学の仕事が始まった。そんなことからアメリカの大学を調べている。一つのプロジェクトが始まるとどこに切り口を求めていくか考えるのだが、この仕事を半世紀もやっていると一週間くらい様々な文献を読み、考え続けると何となく切り口が分かってくる。そうするとそのボヤっとしたものに合わせて研究対象が絞られてくる。

もうすぐ、本格的な大学入試が始まる。みんな様々な理由から大学を選ぶのだろう。入りたい大学より、入れる大学?先生から勧められたから?・・・いろいろなケースがあるだろう、ただ間違いないことは多くの場合、最終学校で学んだことが社会での入口になる可能性が大きい。したがって、一般的に最終教育機関である大学の選考は社会への入口になると言える。そう考えると最も重要な人生の選択の様な気がする。
弁護士という仕事を生涯の仕事にしたいと言う人や医師になりたい、牧師になって神の僕となって生きたいというような人は大学選びを間違えることはないと思う。つまり、大学は手段と考えるような人たちである。このような人たちに強い意志と能力が伴えば間違いなく大学選びは成功すると思われる。しかし、そんな人はどのくらいいるのであろうか?
アメリカの大学は学士過程でリベラルアーツを主に学び、職業教育は修士、博士課程で学ぶのが一般的である。だが、今では学士過程できちんと職業教育をする大学が多くなってきているそうである。そんな大学に受験者が多く押し寄せて人気が出るからである。潰れることが目に見えているような大学が聡明な学長を迎え、再生したという学校のほとんどが職業教育を売りにすることで再生したと言われている。

日本でもリベラルアーツ教育を売りにしている大学が出てきてはいるが、そんなものをどのようにして教え、高潔な人格に育成するのか分からない。神学部は別だが?
アメリカの話ではあるが、今から30年近く前「危機に立つ国家」という報告書で高等教育、とくに大学の教養教育とその設備や施設が批判されたと言われている。
教養教育とはいわゆるリベラルアーツと言われる分野の教育でまさに教養ある人間育成をする教育なのではあるが、それが具体的に国家や社会の発展のための具体的な方策などを提案していないということなのであった。
批判を覚悟して言うならばいい人だけを育てるのが高等教育の目的なのか?ということなのである。高等教育とは簡単に言うと今、SDG‘sで掲げられているような問題を解決するためにあるのだろうということだ。科学的で実証的かつ先進的な手法によってこれまで解決できないような難題を解決すための教育ということなのである。
この辺りの割り切りがアメリカという国を発展させ国家の隆盛を実現してきたのであるが、それ以上にそのような価値創造が間違いなく国を豊かにしてきたのである。そして、大学も実はそのミニ版のようなもので、そのような社会や時代のニーズに応える大学にお金が集まり、評判を高めるのである。しかし、お金に心配しなくていい大学はそんなことを考えもしないであろう。そういうことに対しての日本での文科省の決断が国立大学の法人化なのであった。
日本の大学は明治国家によって西洋の優れた知識を取り入れる入口として作られ、それを必要とする組織に分配する役割を担わされてきた。司馬遼太郎はそれを配電盤と言ったようだった?がまさにディストリビューターである。日本の社会や産業はその大学が配給してくれる知識や技術を同じように使えばそれでかなりの間、済んだのだが、そうはいかなくなった。日本の大学もアメリカの大学のように社会や産業に価値を提供するような存在にならないといけなくなったのである。

そんな大学の存在などちょっと前には想像できなかった。そういうことは企業が自ら行うものであるということを当然のように思っていた。というのが私はそのような価値創造を企業が先駆けて行うような典型的な企業HONDAにいたからである。世界のだれもが解決できなかった排ガス規制に対応したエンジンCVCCを開発したのは大学ではなく企業である。今、時代はその究極である電動化になっている(個人的には脳がない解決法と思っているが?)
たしかに一企業の予算の中では手に負えない問題であるようだが、当時の社長である本田宗一郎は「金はなくとも知恵がある、ホンダより何十倍も大きなGMが金をかけてもできなかったじゃないか?」という小気味いいセリフを思い出す。
日本の大学がこのような優秀な企業がいたからアメリカの大学のような体制にならなかったのかどうかは分からないが、日本の大学はそんな社会の中心にいるような存在ではなかったことは確かである。だが、大学がそのようなことに舵を切ることによって学生たちの大学生活はもっと面白い、充実したものになったことは間違いない。
ただ、アメリカの大学が今のポリシー、いわゆる国家や社会に役立つ研究を行う場になったのは近代になってからなのである。国家の隆盛の一翼を担う大学の存在がはじめて生まれた国はドイツである。アメリカはその成功を目の当たりにして、ドイツの大学をモデルにしていわゆる研究大学化を推し進めたのである。ハーバート大学も当初、村のリーダーを育てる学校として設立されたので、どちらかというと教養大学であった。
今回のコロナ禍で名前を聴くようになったジョンズ・ホプキンス大学は以上のような目的でドイツの大学をモデルにしてできたアメリカの大学の第一号である。
大学の正規教育を受けていない私にとってこの課題は分からないところが多いが、分からない分野に分かったような提案をするのを生業としていた関係で苦労しながらも楽しんでいる。
                                   泉 利治
2021年2月15日

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