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Column

弔 問

 師の弔問に行った。一月後のことであり、納骨を九日後に控えた日であった。師は中学校での師でほぼ三年間の担任の先生であった。科目は「職業・家庭」という科目だったので師の授業は三年間を通してどのくらいあったのかというと国語や数学、社会などの比べ極端に少ない。そんな科目があるのを現実的に考えると私たちの年代では中学校という義務教育を終えたら就職する人たちが何人かいたからであった気がしており、現実的に何人かは高校進学をせずに社会に飛び込んだ。
1946年4月以降、1947年3月以内に生まれた子たちで構成された同じクラスの中で就職した人はそれでも数人いた。覚えている限り一人は当時、新興の会社SONYに就職し、家が工務店であったもう一人は家業に就くことになった。SONYに就職したI君は一家の大黒柱であるお父さんを亡くしたからであり?家業がいわば大工であったK君は修業のためである。職業上の技術を会得するには早いに越したことはない。
I君は小学校でも同じクラスであり家も近くであったのでその後、成人になってもよく見かけたがその後は何となく遠い存在になった。成人になってだいぶたってから、私がホンダに行ったことを知ってしみじみと“君はホンダに行ったんだ”と言ったことが耳に残っているのはSONYとHONDAは戦後の日本を牽引した象徴的な会社であったからだ。

I君は「職業・家庭」で習ったことがどのくらい役に立ったかわからないが、私はデザインスクールで工業デザインを専攻したので「職業・家庭」で習った授業は殊のほか役に立った。というのは中学校でも最低限の三面図の描き方などを教えてもらったからだ。どういうわけかデザイン学校では製図の基本を教えてもらった記憶はない。だから中学校の職業課程での授業は私の人生の基盤の部分を創ったのであった。その職業・家庭の先生が亡くなった山田先生であった。後年、先生と会った際にその話をすると殊のほか喜ばれ。自分の授業で教えたことを職業にした第一号だ!と言ったことを覚えている。
その後、ホンダ在籍中に試作開発したKit Carというエンジン式の小型自動車の完成予想図と組立図を先生の中学校に寄贈したがそれらを先生は授業で使われたそうである。先生は授業で自動車を作りたいという男子生徒にその大変さやプロセスをそれらの教材を使って教えたようであった。

先生は「職業・家庭」で職業技術教育を教えていた一方、植物や園芸も教えていたので私は中学校時代では園芸部に入って、校庭内の花壇に花を育てるようなことをやっていた。今でいうとガーデニングにあたるのだが、園芸などという言葉は死語になっているのではないか?入った理由は案の定、部員が一人もいないので先生にスカウトされた、と言えば格好がいいが本当のところ何のクラブにも参加していない生徒指導の一環で半強制的に組み込まれたのであった。しかし、校庭の端っこの花壇の手入れをしている男の子を見ていた女生徒がその後たくさん入部してきて、そのうち女の園の様なクラブになったので随分と男の生徒からやっかまれたものである。かわいい子がたくさんいたクラブになったからだろう。
その中の一人であったN子さんがその後、当時最先端の職業であるスチュワーデス、今でいうキャビンアテンダントになった。ということからも園芸部女生徒の可愛さレベルが想像がつくというモノである。彼女とはどういうわけか縁があって300人以上のいる同学年で鎌倉市に住んでいる二人になった。同窓会で会って一度、市内でお茶でも飲みましょうと言っていたに今年の三月に亡くなられたのでその機会もなくなってしまった。
中学校の同窓会の総幹事であるN君からN子さんがなくなったということを山田先生に報告の電話をした際に先生が私のことを話したようで先生が電話を欲しいと言っていると聞いて、私は急遽初めて山田先生に電話をしたのである。

私にとって先生は直接会うか、手紙でやり取りする人であり、電話で話をする人ではなかったのである。その最後の電話で先生から余命が今年一杯であるという宣告をされた話を聞いたのである。その際の電話が傑作?で医師から、あなたの命は今年一杯ですと言われた際に“毎日俺を見ていながら、今年一杯とは何事だ!”と文句を言ったそうで。私はその口調から。今年一杯どころかあと3年は持つな?と妙にその権幕の元気さから予想したのであったが、先生はその電話の丁度一月後に帰らぬ人となった。
 
その一月後に喪中のはがきをいただいた私はすぐに弔問に行く手はずを整えたが、電話にでたお嬢様が納骨は25日なので、まだ家におりますと言った。私は一昨日(16日)に先生の家に弔問に伺った。先生のお嬢様は先生の写真とお骨の前にテーブルを置いて3人が同じテーブルで話すようにしつらえてくれたので3人は同じテーブルで話をしたのであった。いろいろ話すと涙が滲んでくるがそれでも一月もたつと明るい思い出話になり、お嬢様から先生がやり残した3つの課題のうち1番目は分かるのですが2番目、3番目が分からなのですが?と尋ねられた。
私は帰宅すると先生からの手紙の入ったファイルを広げて調べたら判明した。内容は

①郷里(新潟県加茂市)のお宮に、ヒメアオキの木を植える。(ホシテンヒメアオキか?)
②ツキミソウのまとめをする。
③府中市の名木をまとめる。

すぐにそのことが記載してあった先生の手紙のコピーと礼状をしたためた封書をポストに入れた。
                                2023年11月18日

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