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Column

フランク・ロイド・ライト

 フランク・ロイド・ライトという名の建築家を知ったのは、確か我が人生の迷走期の頃である。それは毎日新聞の「2世会」という、新聞販売店の跡継ぎをプロモートする本社企画の集まりに出た際の会食の場が帝国ホテルであったからで、その時の案内で帝国ホテルは世界的な名建築家のフランク・ロイド・ライトによって設計されたということを聞いたことによって初めてその名を聞いたのであった。
 こういうホテルを設計するとはどのようなことからできるのだろうかと思ったが、そんな職業につけるということが妙に輝いて見えたのであった。新聞販売店の店主なんていう人生にちっとも魅力を感じていなかったが、どうするすべもなかったというのがそのころの自分であった。
 ただ、帝国ホテルでのランチは洋画で見るような世界を垣間見た気がしないではなかったがこんな世界を体験できるのはこれが最初で最後になるのだろうという気がした。
 今まで欧米を舞台にした映画の中の世界がこの日本にもあるのだということである。しかし、そのような世界を体験できる人は1964年前後では本当に限られた人のみであったのだ。まだ日本は貧しい国であったからだ。

 その当時の私のいた環境は当時としてはごく平均的な商家であったろう。貧しくもなければ豊かでもなかった。ただ、まったく夢も希望もない環境であった。家業を手伝っていた関係で夕刊の新聞配達があるので学校を終えた後の流れで友達と遊んだり、友だちの家でその友達の家庭環境や友達の家の人の話などを聞く機会などもまったくなかった。
当時の目黒区の学区はどちらかというとお屋敷や一流企業の社宅などが多かったのでそれらの家の子がクラスの半分を占めていた。したがって、頭のいい子、というか、成績のいい子はそのような家の子がほとんどで地場の商家や職人の子は一部の例外を除いて上位の成績をとるような子は少なかった気がしている。その一例が中学校に上がる際に私立中学に行く人が私のクラスでも4人ばかりいたが、全員お屋敷に住んでいた子たちであった。
 ただ、同じような家庭環境で同じくらいの成績の子でお屋敷の子でも私と同じように4中や5中に行った子はいたようだ。5中に行き、その後、大学の建築科に行き、1級建築士になったS君がいた。何年かして同窓会で会って話したが、私は工業デザインを学びHONDA でデザイナーをやっている。と言って話したが彼は小さな建築事務所で仕事をしていたが私から見てさえない仕事をやっているなという印象であった。
 今から考えるとなんでフランク・ロイド・ライトのような建築家になれなかったのかを考えたが、サリヴァンやライトとの違いは、ただの建築事務所に勤めたのでは、ただの仕事しかないということなのだろう。ただ、それは事務所の問題ではなく、自身が一角の建築家であり、それにふさわしい仕事ができるところを選び抜いてそのような環境に自分をおけるか否かということにかかっている気がした。才能とは己に対する過信ともいえる意識をもって生きていける人のことを言っているのではないか?
 サリヴァンを見て思ったことは、限りないくらいの自己崇拝的な自信である。「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」と何度も腹の中で思いながら人生の転機を駆け抜けてきたのだろう。フランク・ロイド・ライトのことをもう少し追いかけてみたい。
                             2026年2月23日T>I

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