ブランドワークス

Column

ホンダランド・テックプロダクション

三連休がえらく多い時代である。昔は・・と年寄りは始まる。
土曜日だって半ドンの就業時間などがあった。そのために埼玉県にある会社に1時間半かけて行くのである。午前中だけの就業なので、昼飯を済ますと洗車をしたものである。時間があるからWAXかけもした日もあった気がする。
 洗車が終わると帰宅なのだが埼玉県の会社から目黒の家までは寄り道をすることが多かった、デザイナーという職業柄、町々にある店舗などに寄って何らかの新しい情報を見聞することが不可欠だからである。和光市から目黒まで、環七を通るとあまり見るところがないが環六に入り途中から、赤坂、銀座などに入ると面白いところが多かった。
今から50年も前の話なので例えば外国のファッションや雑貨の面白いものなどは例えば銀座のアメリカンファマシーや芝のPISAやアメ横に行かないと目に出来ない時代だったからである。
 それでもさすが東京である、その後、丸の内のインペリアルロードができて、私はロイヤルコペンハーゲンやダンスクの店に足繁く通ったものであった。そこには唯一、本物のデザインがあったからだ。当時は手が出ないロイヤルコペンハーゲンの食器は現座の私の朝食の専用食器であり、デスクの脇の小机にはダンスクの小物入れとコルク蓋がついた容器が置いてある。青春の憧れと私のアイデンティティを常に思い起こすために身近に置いているのである。
 
 私がデザインという世界に入ったことは今から考えるとベストな選択のような気がしている。それは人生で決して最善の選択には思えなかった。しかし、それは間違っていた。最善の選択であったのだ。人が選ばないような選択をするということは今は賢いと言われるようになったが、私の時代にはいずれ、小指を欠損する道に向かうような選択に近いものがあった気がしないではない。人生のモラトリアムの迷いといえるだろう。
 当時、デザイン学校などに行っても食べることなどはおぼつかない時代であったのだ。
まして、工業デザイナーになるということとは何なのだろうか?学生も教師も分からない時代であった。まあ、千葉大の工芸意匠科でも卒業したら、先輩のコネなどでその道の会社に職を求めることができたかもしれないし、大学側にもリクールトの依頼など来たかもしれなかった。だが、私が入学した東京デザインカレッジは私が入学する前年に出来たデザイン学校であり、確か、一人も卒業生を輩出してはいなかったのではないかと思う。
 
 しかし、10名に近くいた卒業生の半数はそれなりの会社に就職した気がしている。デザイン事務所が2名、企業が3名、私を入れた残りの者は何か違う道を選択したようである。
しかし、その機は逸したもののその2年後くらいに私も新聞の募集広告をみてホンダランドテックプロダクションに就職することになった。今から考えると本田グループの中で最大のその会社は私にとって多分に出来すぎた就職先であった。卒業生の中で最もメジャーな企業に就職したことになったからである。何といっても、創業社長の本田宗一郎がまだ社長として君臨していた時代である。
 この会社で学んだものは大きかった。それは私がこの会社で採用したいようなデザイナーだったからである。というのは学生時代の課題に自動車が2点、スクーターが1点課題として選んで作品として残していたからであった。したがって、役員面接の日にはそれらの課題の記録したファイルを持参したのであった。内容はデザイン方針などのまとめ、アイディエーションのスケッチと完成予想図(レンダリング)、スケールモデルなどをまとめたファイルを持参したのである。
 塩崎定男専務は作品を見ていろいろ質問をした。その中で答えられなかったのは“なぜ、こんな太いタイヤにしたのか?”に対する答えだった。私は漠然とスタイリング上,カッコイイと思ったからと答えた。 
 採用の通知が来るまで一月かかった。あとで聞くと興信所を使い私のバイト先での働きぶりなどを調査していたようであった。私はいい加減な仕事はしないたちなので良い評価がホンダ側に伝わったと思う昭和46年11月1日私は和光市の職場に向かった。
 そこでの最初の仕事は開催したばかりの自動車ショウを晴海に観に行くことだった。私は面白会社に就職したものだと思った。人生が開けてきた気がした。
                             2025年11月3日T>I
 

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