明日、学校に行くことになった。5年間にわたりお世話になった学校である。
とは言っても、私が学んだ学校ではなく仕事をした学校である。
学校ではいい思い出がまったくない。少なからず学校には幼稚園も入れると17年間お世話になっている。仕事でお世話になった青山学院の5年間を加えると22年間学校と縁を持ったことになる。
昔は学校というところはいい思い出が詰まった場所のように言われてきたが最近では何かとネガティブな情報しか耳にしない。学校でのいじめで命を絶った話や、学校教師の破廉恥行為の話など、私などはそちらの学校のニュースを目にするにつけ、そっちが本当の学校の姿なのだよ、と言いたいくらいである。
ろくでもないクラスメートにろくでもない先生、それを実感した人生のような気がしている。それに比べると学校を卒業した後の会社の方がいい思い出が多いものである。そこには自己実現をした様々ないい思い出で満ちている気がしないではない。それがなかったら私の人生は惨憺たるものではなかったのではないか?
学校も会社も人生を過ごす場である。その差は何かを考えてみた。結論は自己実現とその結果の見返りなのではないか?たしかに学校でも見返りがあったかもしれない。いい成績を取って、先生からも親からも、友だちからも称賛されることなどである。
ただ、よく考えるとそれらはみな、人が絡んでいる・・・?これが曲者だ。人の評価というものは常に自分のそれとは違っている評価、判定基準を持っているのだ。算数で60点取ったら上出来と考える自分と教師の上出来は違うのだ。
どちらに価値があるのか、人間にとってベストであるのか?これが人生の極みなのではないだろうか?
最近、高齢の女性を殺して人生を終わりにしたいという男がニュースで映し出され、簡単にその人物のこれまでのプロフィールが紹介された。その犯人の中学校時代の写真と、警察に連行されたその男の顔が別人のように見えた。中学校時代のその男は輝くような笑顔であったが、連行されるその男は貧相なネズミ男のような顔をしていた。確か31歳のその男は何で、人生を終わりにしたかったのか?なぜ、何も抵抗ができない75歳の女性を道連れにしたかったのであろうか?この思考プロセスは興味深く、底なし沼のように深い。
思うに中学校時代の彼の前途は輝かしい、希望に満ちた時代だったのだろう。それなりにいい成績を取って、先生からも、友だちからも両親からも称賛されたのだろう。ところが社会に出た途端それが一変した。若いころの、それまでの自分に対する評価は何だったのだろうか?そんな思いを何回もしたら、普通の人はめげてしまう。とくに若いころこのような評価ばかり受けてきた人生を歩んだ人は・・・・?
そういう人がこの世には残念ながら多数いるのではないか?それに順応できない人が。
テレビでその男の顔が映し出された、まさにネズミ男のようなその顔を見る限り22歳で大学を卒業して9年間社会での過酷な体験で心も顔もネズミになってしまった気がした。9年間の悲惨な気持ちで過ごして来たらああいう顔になるに違いないと私は思った。
学生時代と社会人時代のギャップに順応できないことはこんなに悲劇を生み出すのだ。
何か救いの道はあっただろうか、心が許せる人はいたらよかったかもしれない。宗教もあるに違いない。教会に行くか?座禅を組みに建長寺にでも行くか?そこには春風が吹いているはずだ。それを語ってくれる人と出会えるだろう。何かを求めて門をくぐることだ?
2025年10月5日T>I













