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Column

伝次郎さん

 伝次郎さんとは私のおじさんである。母の弟にあたる人で、それでありながら母が最も信頼していた人であった。母方の兄弟は母と妹の貞江さん、兄の伝造さんと弟の伝次郎さんの四人兄弟である。伝次郎さんは二男で三番目の子供であった。
 山形県の羽前長崎に母の実家があり、私もその母の実家で生まれたことになるので、何かと長崎は優しいおばあちゃんがいるところであった。
 ただ、母が子供の頃の長崎は日本で最も貧しい地方であり、子供たちが売られているような時代であった。したがって、長男の伝造さんや母は一桁の年齢で大きな商家で働かなくてはならなかったようだ。これを第一次としたら第二次は次男の伝次郎さんや次女の貞江さんも同じであった。
 兄弟の中で伝次郎さんだけが特殊技能である自動車の運転を当時としては身に着けて、その後の人生を他の兄弟とは違った歩みをした気がしている。だが、その技能をどこで身に着けたのかは不思議であった。今となっては・・・?もう亡くなってから20年以上たつ。 私はそのこと聞くために倅の信一さんに電話をして聞くことにした。というのはおじさんは太平洋戦争では自動車の運転ができるということで日本軍の戦車部隊に配属され千葉県にあった戦車部隊の本部で訓練に明け暮れていたからであった。
 
 私は思い立って一人息子である信一さんに電話をした。
話しはこうであった。伝次郎さんはやはり他の3人の子供と同じように関東の方へ働きに出された。千葉県の銚子だったらしく信一氏は伝次郎さんが店の前掛けをしている職場での写真を見たことがあるとの事であった。しかし、そこの職場の仕事がきつくて汽車に乗って実家の長崎に逃げ帰ってきたとのことであった。
 そこで多分,伝次郎さんは実家の長崎から通えるか山形の会社に職を求めたとの事であり、運よく第一貨物という現在でも山形県ナンバー1の運送会社に就職できた。伝次郎さんはそこで働きながらトラックの運転に興味を覚え自身で努力してトラックの運転免許証を取得して働くことになった。
 私が聞いた東京から山形まで栗子トンネルを通って何度も往復したようでその時の苦労話などを以前聞いたことがあったが、それは県庁での仕事ではなく第一貨物時代の話であったようだ。当時の自動車が通るような一般道路のトンネルの路面が劣悪で苦労してトンネルを抜けたというような話であった。
 したがって、戦争で戦車兵として駆り出されたのは第一貨物の時代で軍からの戦車兵として要請があったのだろう。したがって、日本軍の戦車部隊(千葉陸軍戦車学校)で戦車の操縦を練習して戦地に赴く予定であぅたがその前に終戦になり、山形に戻ってきた。
 その後、戦争のどさくさが一段落して仕事に戻ることになって元の職場である第一貨物に行く予定であったが私の父から山形県庁に自動車の運転ができる職員を求めているという話が来て、迷ったが長い目で見ると山形県庁の方が良いのではないかということで伝次郎さんは県庁を選んだが給料が第一貨物の半分であったようでそれには参ったと思ったそうである。
ただ、公務員の方が長期的な視点で見るとよい気がしたらしく、その判断の下で県庁にしたが、伝次郎さんが奥さんと結婚する際に奥さんが選んだ理由が加藤家は実家に比べるとだいぶ、見劣りするが新しい伴侶が県庁の職員であるということからOKしたとの事であったので、給料が半分でも県庁を選んだことは正解だったようである。
 そういえばうちの母なども弟が県庁に勤めているということがひとつの自慢になっていた気がしたものであった。県庁職員は何となく山形県民の中では絶対的なステータスであったようである。県庁を去る際には叙勲を受け(平成元年:春)にその叙勲記念の朱肉が今でも私の引き出しにあるが見事なものである。
 私は小さい時から“ブブおんちゃん”と呼んで小さい時から可愛がってもらった気がしている。家庭の事情で長崎に数か月住んでいた頃の楽しみはブブおんちゃんが帰ってくるので羽前長崎駅まで迎えに行ったくらいであった。
 自動車運転が好きだということは自動車が好きということで私の母も自動車に乗ることが好きであったし、私も自動車が好きで今でも車の運転は何をおいても好きなことは血のような気がしている。
私の最初の就職先がHONDAであり、そこに入ったきっかけはたまたま工業デザイナーをめざして一人だけ自動車という課題をテーマに上げて2年間学校で取り組んだからであった。本来、私の通ったデザインスクールレベルではHONDAになんか入れないのであるが面接の際に課題として取り組んだデザイン開発記録を見ていただいた塩崎専務が採用の承認をしてくれたからであった。勿論、私のデザイン学校でこれほどメジャーな企業に入れた人はいなかった気がしているが、このことがその後の人生をどれだけ生産的にしてくれたかわからない。そういう意味からも伝次郎さんは私の人生の道をさし示してくれた気がしている。
                         2026年2月2日>泉 利治

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