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Column

学歴と職歴・PART2

 “転職が当たり前の時代”のニュースの中で、だれもが知る有名な一流企業を数年で辞めた女性を紹介していた。辞めた理由が分からないではないが女性ですら思い切った転職をする時代になったものだと感心した。一言で言うと「生きがいを求める」というのがその理由である。
 私の場合、4回転職をしている。しかし、理由はすべて4つの会社が物理的か心情的に継続は困難だったからやめたのであって、自分の生きがいを求めた転職などではなかった。
1社目のH社は事業所が関西に移るので、当時、住んでいた先祖伝来?家を空き家にするわけにはいかないし、お墓参りもおろそかになるなどで退職せざるを得なかった。

2社目のA社はかねてから取引をしていた会社からの誘いで、給与も50%ほどupするので入社はしたが、いざ、入ってみると本来の狙いであったマーケティングの仕事などは皆無で、その上、社長の人格の豹変と、経営がずさんでこの会社にいることで自分のキャリアに傷がつくと思ったので半年で辞めた。この会社は数年後、社長が夜逃げして潰れてしまった。

3社目はそのA社が購読していた業界誌で知ったマーケティングの専門会社のP社である。そのP社は知れば知るほど凄い会社であった。と言うのはデザインやマーケティング、特にCIの草分けの会社として独自の強みを持った会社であった。
面接を終えた後に“今、P社に入ることが決まって待機している人は2年間待たされているのですが君は運がいい。工業デザイナーの出身者だからだ”と言われたのを覚えている。
そこはどちらかと言うとグラフィックデザイナーがあこがれるような会社だったので私のような大企業の工業デザイン畑の人間は誰もいなかったが、クライアントは大企業ばかりだったので、私のようなキャリアの人材を欲していたようであった。
 会社は都心の閑静な住宅地の中に建物全部を借り切っていて、社長は車好きと見えて当時、珍しいAUDIのセダンの乗っており、かなりの車好きのようであった。最後の社長面接は夜だったが私はその面接に愛車である、黒のAccord Hatchback で会社の前に横付けして面接にいった。Porche911ならもっとインパクトがあったろうがなどと思いながら社長との面接を終えて出口でたじろいだ。パトカーの赤色灯が目に飛び込んできた。
“まいったな?”と言ったら、社長が
“どうしたのか?と聞いた。
“車で来て、会社の前に止めていたのです”
“大丈夫だよ、この辺で駐車違反などしていないから・・・”二人で表に出た。
“これです!ダイジョブでした。ひやっ!としました”
“やはりHONDAの車だな”
“アコードです。従業員販売で買えるのですよ”
そんな話とHONDAの話をすると社長は興味深そうに聞いていた。、私は受かった感触を得て夜道を四谷から目黒の自宅に急いだ。
 入社が決まって、給与も30%ほどupした。この会社で私はマーケティングや調査手法、戦略立案、プレゼンテーションのやり方などを6年間勤めて自分なりに習得した。

4社目の会社はP社がネーミング開発を依頼していた英国籍のI社であった。今では世界有数のブランディングカンパニーではあるが当時はネーミング開発と全世界の商標調査などを主体に日本で事業を展開していた。外資系企業であり欧米にネットワークを持ったI社は商標調査とネーミング開発の二本柱の専門会社であったので海外進出をもくろむ会社にとってはありがたい存在であった。しかし、日本語が堪能な英国人社長はCIやブランド戦略、パッケージデザイン開発の分野に進出したいという野心を持っていた。 
私にとってその会社はP社で得た知識等を活用できるのではないかと思っていたのでお互いのニーズが合致した感があった。あとは私のサラリーの折り合いがつけばよかったのだ。私はその時43歳になっており、大台に載せたかったのでそこが攻防ラインであった。
 先方も私が本当にCIやブランド戦略、パッケージデザイン開発を推進する力があるのかどうかわからなかったのだ。ただ、私はそれらについてH社、P社でマスターしていたので、自信はあった。仕事が発生すれば何とか出来るし、見積もりを含めたプロジェクトマネジメントもやれる自信はあった。そんなことを何回が日本語で話し合ううちに先方も折れて、晴れて入社できた、が、10人に満たないオフィスに入った時に私はこの転職は失敗だと思ったものであった。その時のP社は70人に迫るスタッフを抱えていたからだ。
 そんな中で私は英国人の社長と営業活動に同行し、企画書を書いてプレゼンテーションをしたが、そう簡単には仕事は取れなかった。入社して半年くらいして外資系の飲料会社のX社の仕事が飛び込んできた。新任の米国人社長は日本市場や日本人を知らないので、そこをサポートしてくれるマーケティング会社を求めたのであった。アメリカ人にとってやはり日本市場を知ったマーケティングコンサルタント会社で、その新任社長の意のままに動いてくれる、英国人と日本人のスペシャリストがいるところは渡りに舟だったようで、ビッグクライアントを獲得した感があった。そして、最後には驚くべきことにそこの企業の全商品を手掛けることになった。おかげでこの1社でこれまでの年間売り上げの3倍くらいの売り上げを達成したのである。私のサラリーもそれに合わせて信じられないくらいUpするのだが、これまでの前年比7%Upどころではなく70%Upするのには、やはり外資系企業だな!と思ったものであった。
 私はその会社に13年近く勤めてそこで終わるつもりでいたのだが、そうはうまくいかないものである。ただ、輝かしい職歴はここまでである。確か55歳の専務取締役でI社を辞めることになった。昔は55歳定年であったので、何となくそれに習った。

 今から思うと私の在籍した3社は在籍中も、その後も業界では超一流の会社として知るし人ぞ知る会社であった。
 最初のH社は運よく創業社長が今でも歴史に残るような人物であり、少なからずその人物が在籍中にその会社の子会社に在籍した私にもその威光が及んでいたのであった。
 つい先日、何かのおりに本田宗一郎社長の退任が決まって、社長を降りる前に全世界のHONDAで働いている人たちにお礼を言いたいと言って、2年の歳月をかけて世界中のHONDAの事業所を回り、全社員と握手をした話をした。
 私の職場は宗一郎社長のホームベースともいえる和光研究所のそばにあったので、私の事業所には2年目の最後に来た。佐々木室長が私がデザインの仕事をしていることを説明してくれたら、宗一郎社長が”泉君、頑張ってくれてありがとう”といわれて握手をした話をしたら。私より3つばかりの年上の理事長は驚かれて、あらためて私の仕事の進め方や成果に納得されたようであったし、2社目、3社目の会社もそれぞれ絶頂期に在籍したことでそれだけでその後も優遇されたのであった。
 反対に学歴では私が学んだデザイン専門学校は入学したときは日本のバウハウスを目指すと言って、デザイン教育界で注目されたが私が卒業して5年もしないで廃校になってしまった。経営が行き詰り潰れたのだ。したがって、学生が路頭に迷ったとして当時、社会問題化した。
 卒業して何年かして何かの用事で銀座に出かけた時、後輩が数寄屋橋でカンパを募っており、私は彼らの話を聞いてカンパをしたことを鮮明に覚えている。あとで分かったことなのだが、その学校に正規に入学して、卒業した人は私たちの世代の学生だけだった。そんな学校は今では誰も知らないのだ。
                               2024年5月27日

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