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Column

学歴と職歴

 以前、担当したプロジェクトのもとで3年間苦楽を共にした3人が会うことになった。一人がクライアントに在籍している方だったので、当該組織についての話よりは客人の現在の話などが主になった。K氏と私の客人の話がH氏にとってこれからそのような境遇になるので、自分の明日について考える際の参考にしたかったのであろうと思われた。
 私に関しての話はチェロと小説を書いている話になった。と言うのがH氏はヴァイオリンの個人レッスンを受けているということを知っていたからである。
 私はチェロの現在の話をした。一番興味をそそったことは今年からレッスンを中止したことで、その理由などの話になった。その内容は多分、弦楽器の経験者でなければわからないような話であった。私はこう切り出した。
“8年間レッスンを受けた先生を辞めた理由は指使いの指導がいい加減だったからです”
“それは、どういうことですか?”
“指使いは自分がやりやすい、弾きやすいポジションで練習していいですよと、言われた
ので、それで練習していたのです。ところがバッハのチェロ組曲の2番のプレリュードを
弾いていた時に何かかがおかしい?私のチェロの音に違和感があったのです・・・・“
“どんなふうにですか?”
“CDなどで聞いたプロの奏者の曲と根本的に何かが違うのです。音程は合っているに違う
音のようなのです。悶々と数週間弾き続けました。そして、なぜなのか考えました?”
“・・・・・なるほど?”
“それで、楽譜を見直しました。私はピエール・フルニエが監修した楽譜で練習をしてい
るのですが、記載してある指番号通りに弾いてみたのです。そうしたら想定した音が出て
同じように弾けたのです。チェロの場合、譜面に書いてある同じ音が3,4か所あるのです。
したがって、ピアノなら一つの音に対応している鍵盤は一つしかないのですが、チェロは
多い音で3つ4つあることに気づいたのです。したがって、音楽的に弾きたいとしたらど
のポジションの音でその曲を弾くのかと言うことが音楽的に重要になることが分かったの
です。したがって、知っている、弾きやすいポジションの音でいいのですよと言う教師を
信頼できないことが分かったのです。しかし、一番の問題は8年間、いわば第一ポジショ
ンでしか弾かなかったので、そのほかの第二、第三・・・ポジションを覚えられなかった
のでした。もうやり直しがきかない年齢じゃありませんか?若ければ挽回できるかもしれ
ませんが・・・・?ただ、77歳の身としては?”
“でも、それはひどい話だね?・・・じゃあ、今は別の先生を探しているわけだ?”
“そういうことになります・・・”

 その後はK氏の話になった。K氏は画期的な海外留学の簡易装丁をした本を全員に配っ
て、その話をした(先週の本稿のテーマはその話から刺激を受けた内容である)
私は現在執筆中の「光悦はばたく」の話をした。クライアントでの仕事を終えて去った
二人が同じように文筆活動をしているのが興味深かったようであった。とくにK氏が持ってきたサンプルと言うのはK氏のその本も私と同じKindle で出版予定であるとの話であったので私も興味深かった。その本は時代的にタイムリーな本である気がした。
 教育無知の私にはアメリカのプレップ・スクールと言う初めて聞いた語が大変興味深かった。結局、この優れた本が私に大変面白くて3日間で読了することになったが、海外留学と言う夢のような話はおとぎ話のように感じたものであった。

 その後の同窓会会食での話では、本来ここにいるべき、亡きF氏の話になって、私はF氏がインターブランド社に面接に来た際に私が面接官であった時の話をした。そして、最後に彼についての象徴的な感想を述べた。

“あなたは学歴は最高だが、職歴はあまりよくないですね?ところで今どんな業務をしているのですか?差支えのない範囲で教えてください”と聞くと
“今朝は駅前でチラシを配って、今日の面接に来ました”
“どんなチラシなのですか?”
“ロスアンゼルスに安価で行きたい若者に向けたチラシです”
“・・・・わかりました。ところで、あなたは青山学院大学なのですね・・・専攻は?”
“経済学部です。私は初等部から青山学院だったのでどこでも入れたのですが・・・”
この学校の初等部に入るには、確か23区内に住居がある子女じゃないとは入れない。勿論、裕福な子女に限られる。彼はその背景を感じさせる。育ちの良さと、聡明さが私を魅了した、これまでエントリーしてきたどの人物より魅力的に映ったのであった。勿論、合格である。しかし、彼が私と仕事をするのには2年近くのブランクがあった。
私と彼はペアになったことで大きなプロジェクトを二人でこなし、所内でナンバーワ
ンの売り上げを達成し続けた。だが、彼は何年かして自分がやるべきビジネスのために私とは決別するのだが、退社して1週間ぐらいして礼状とCDが自宅に送られてきた。
「DohYoh」と言うCDを聞きながら彼の手紙を読むとポロポロと涙が出てきた。今でもそ
のCDを聞くと目頭が熱くなる。それから15年くらいして、彼と再開して劇的なプロジェクトを成し遂げて彼はこの世から姿を消した。
彼の葬儀で驚くべき光景を目にした。確かに葬儀とは悲しいはずであるのだ。だが、これほど多くの人の嗚咽を聞いた葬儀は初めてであった。だれにとっても特別の人であったのだ。
                              2024年5月20日

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