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Column

映画評論

 私は小さい時から映画好きであった。これは多分、母の影響かと思われる。母は三益愛子の母子の物語が好きだったような記憶があるが、母の友人であった沢渡尚子さんの影響で洋画も見るようになったようだ。当時、二本立ての映画の上映が山形の映画館では普通だったので、いわゆる一般的な嗜好に合致したものを見てきたのだろうと思う。
 そんなことからテレビの時代になっても私は映画館にはそれまでと変わらずに通っていた。映画館に通わなくなったのは見たい映画がなくなったことと、テレビで本物の映画を放映するようになってからだと思う。とくにアマゾンプライムのような映画好きにはたまらないメニューが出現すると、時空を超えて100年前の映画も見ることができるのでもう少し長生きしたいと思うようになったくらいである。

 最近、アマゾンプライムで観た映画の評論を送るようにしている。これが良かったと思ったのは真剣に映画を見るようになったからである。すべての映画は多くの人の努力の結晶で、それは2時間に凝縮された人間の想像力の賜物と言えることから真剣に見ることくらいが制作者に対する礼儀のような気がしている。
 エンターテインメントと普遍的な人間愛のようなものが描かれた作品と言うものが最高の映画と思われる。ただ、最近はエンターテインメントのバリエーション型の映画が多い気がしないではない。ただ、歴史に残る映画とはその割合が絶妙に配合されており、一人一人の人生の財産になるようなものになっている。
 映画は小説などと違い短時間ですべてのものが視聴者に送られるので、現実的に考えると、その後何日も何カ月も何年にもわたり思い出せるものなので、その瞬間、瞬間は映画を見ている時と同じ気分でいられるので結構楽しいものである。
 私はひょんなことから映画評論をアマゾンに送るようになってから、それまで以上に映画を真剣に見るようになった。というのが映画は勿論のこと監督や演出家や俳優についても真剣に考えるようになったからである。これは物語作家としての自分にとっても良い気がしないではない。いわゆるその時、何を伝えるべきかを考えるようになったからだ。
 
 先日、オードリー・ヘップバーン主演の「シャレ―ド」を見た、少なからず4,50年前の映画と思われるのでシリアスな内容なのに妙にコミカルに描かれているので少々、不愉快になった。なんでこんな映画になっているのだろうか?と考えた?私の結論は主役のオードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」の演出とキャラクター性をリプリントしているのではないかと思った。そして、それが当時のハリウッド映画、独得の映画製作の手法に則った古色蒼然のハリウッド映画だ。と、批評をした。したがって現在その映画を見るとどうみても時代を超える普遍的な作品にはなりえないというような辛口の批評をした。アマゾンの映画批評はいわゆるポジティブ評価とネガティブ評価に分かれて掲載されるのだが、唯一、私の批評が初めてネガティブ批評のトップとして掲載された。それに引き換えポジティブ評価は列をなしている。この映画はそれまでだれも辛口の批評はしていなかったのだ
 よく考えるとこれはオードリー・ヘップバーンの悲劇のような気がしている。と言うのは映画ではその俳優が強烈なキャラクターでデビューすると映画会社も視聴者もその俳優にはそのようなキャラクターでしか使われなくなって、俳優としての可能性が狭められてしまうことで、当人の役者人生としても不本意なものとなってしまうからである。
たとえばターザン映画でデビューした俳優はその役以外の映画を演じることができなくなってしまうし、アンソニー・パーキンスはヒッチコックの「サイコ」で強烈なデビューをしたためその後、そのような性格異常者の役の話しか来なくなり、将来を期待されたのに消えてしまった。それを克服しようとしたショーン・コネリーはジェームス・ボンドを演じることを拒否して、積極的に自分の色をニュートラルにする努力をした。その結果、その後、良い役者人生を送った気がしないではなかった?
 
 オードリー・ヘプバーンの「ローマの休日」以降に主演した映画群を見ると様々な役柄を演じているようだが、意外とコミカルな役柄が多いのには驚いてしまうが特別の女優であり人間であることが分かる。最後の彼女の私の印象はユニセフの仕事なのだが、私の印象は英国王室のダイアナとオーバーラップするのが?偶然か必然かわからない。ただ、女王体験者ならではの仕事であったような気がしないではない?
                              2024年6月24日

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