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Column

フルトヴェングラー

 この稀代の指揮者についてまったく知らないに等しい。せいぜいわかっていることと言えばどうも人類史上最高のオーケストラ指揮者であるらしいということだけである。私がTDCに入った際にできた友人がその指揮者に心酔しており、反対にカラヤンをいつもこき下ろしていた。
 60年近く前Tokyo Design Collegeに入った時、この先進的なデザインスクールはここで学ぶ学生も同様で当時の私との差は中学生と大学生のような感じであった。学生たちは日常的にカリキュラムや教師を批判をしていたし、その批判の内容を理解する知識も頭もない自分に驚いたものであった。
 そんな私でも思想的な能力を超えて友人はできた。S君とT君である。
補欠募集で入学した私はまだ教科書がない段階で授業に出たので教科書がなく、ノートにメモっていた。そんな時、偶然、隣に座っていたT君は私が教科書がない理由を聞いて二人の間に彼の教科書を置いてくれたので当初助かった。それからT君とは親しくなってランチを一緒に行き、授業が終わるとお茶などを飲むようになった。少ししてその後、私はS君とも親しくなった。理由は同じ補欠募集で入ったからであった。
彼は授業を受ける際の教科書をどうしていたのかわからなかった。後で分かったことは教科書を必要としていた美術史を選択していなかったので教科書を必要としなかったのだが、小、中、高ではだれもが同じ授業を受けたが、ここでは授業科目を自由に選択できる自由があることを知って驚いた。私が美術史を選択した理由はそれを教える教授が有名な人だったからで、他の学生はそんな判断で授業を選択しないし、何となくデザイン界では有名な人と言う権威性を拒絶するのが当然のようではあった。だが、私がこの学校で唯一理解できるのが美術史のような気がしただけだった。
 そのうち、帰る方向が渋谷経由と言うことでS君の方が共にする機会が多くなった。また、2年生になる際にS君と私はインテリアプロダクトデザイン科にT君はグラフィックデザイン科に専攻が変わったので会う機会がめっきり減ってしまった。
 S君はクラシック音楽に詳しかった。そういう家庭に育ったのだった。弟さんはヴァイオリンのレッスンを受けていたし、S君はフルトヴェングラーの信奉者であり、私にバッハのすばらしさを教えてくれた人物でもあった。
 私がバッハが好きになったのはチェンバロの音色が古風なヨーロッパを感じさせる音だったことが好きになった要因であった。そしてチェンバロで弾いた「アンナ・マグダレーナバッハのメヌエット」が私の聞きたい音楽であるという理由からS君はバッハの管弦楽組曲第2番を教えてくれたので私は早速、レコード買ったがその曲は入っていなかった。ただ、その曲名を知りたいがために何回も聴くうちに私はバッハのすばらしさに気づいた。この間違いに今では感謝している?それから、私たちの話の領域が広がった。
デザインの話とクラシック音楽の話が中心になってきた。フルトヴェングラーはその中で登場してくるのである。S 君はカラヤン嫌いであった。今回はじめて知ったのだがフルトヴェングラーも生前からカラヤンの名前も口にするのを拒否するくらい嫌いだったようである。したがって彼を呼ぶときは「K」と呼んでいたようであった。映画「Taking sides the Hitler」ではそのことをアメリカの首席検事から追及された。

 いわば連合国の戦争犯罪人としてフルトヴェングラーを絶対にナチの手先であることを証明してやるという意気込みその首席検事は周りの部下たちを叱咤したが、部下からもう少しフルトヴェングラーに敬意をもって接してくださいと懇願されるありさまで多分、この人物、実在した男と思われるがキャリアはアメリカの保険会社の調査員だったようで、保険をごまかして補償金を取る輩と同じようにこの高名な指揮者を犯罪人のように扱かった。たとえばまず,事務所に来たらすぐに取り次がないで待合室でしばらく待たせろ!や、取り調べ中にアシスタントにコーヒーを持ってくることを指示するがフルトヴェングラーには必要ない。奴の前でおいしそうにコーヒーを自分だけ飲む、それは犯罪人ではないからだということを自覚してもらう意味らしい。
 この保険会社調査員出身の検事少佐と当時から最高の指揮者と言われたこの対比が面白い。また凡庸なアメリカ人が神のごときドイツ人を裁く図式が壮絶である。たとえば取り調べ中の二人の話が面白い。アメリカ人の実務的な追及に対して、ドイツ人の崇高な観念的哲学的な弁明。しかし、最終の裁判ではフルトヴェングラーは無罪にはなったがアメリカでは二度と指揮活動はできないという程度の軽いペナルティであった。
 この映画ではフルトヴェングラーはナチスのためにドイツに残り、演奏活動をした、そしてヒトラーやゲッベルスを喜ばしたという罪でこっぴどく追及される。トスカ二ーニなどはドイツを出たではないかと?そして、検事は当時、ドイツから出なかった団員を徹底的に調べる。ちなみにフルトヴェングラーがドイツを出なかった理由は“自分はドイツ人だからだ!”と答えるがそのあたりのこだわりは故郷不在のアメリカ人移民を祖先に持つアメリカ人には理解不能なのかもしれない。
 幻灯機でナチのブルドーザーがユダヤ人の死体を大穴に放り込むフィルムを見せて、こんなことしたヒトラーの下をなぜ去らなかったと追及する。しかし、フルトヴェングラーはドイツ人貴族と言う誇りを守る。考えてみればヒトラーはオーストリア人でドイツ人ではないからだ。よそ者がドイツに来て国家を乗っ取り、やりたい放題にやって、なぜ生粋のドイツ人がこの国を去らなければならないのか?と言うことがフルトヴェングラーの本音なのであろう。この論理はアメリカ人の保険調査員にはわからない論理と言えそうである。フルトヴェングラーはヒトラーが自殺をして、ドイツが降伏をした後の1954年11月30日に68歳に祖国で亡くなる。
                             2024年7月15日

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