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Column

事実は小説より奇なり

 「歳を取った明らかな証拠は毎朝NHKの連続テレビ小説を見ていることである」と若いころ何となく思っていたが、その仮説の検証をもう十年近くやって、そういうことになるのかとあらためて思った。
 昨夜、どこかの出版社が小説を募集しているということをネット上で見た、ただ、賞金が20万円とえらく安いなと思ったのが正直なところで、諸条件を見るとその小説応募の条件で面白いと思ったことにA4の原稿10枚以上と言うのがあった、締め切りが明日の5月31日となっているので、だからこんなぎりぎりまで募集しているのか?と思った。
 10枚で書ける小説か?と思ったが、400字詰めの原稿でいうと20枚近くになるから、書けないことはないかもしれないが、書くことではなく、着想が思い浮かばない気がしたものであった。私の場合、小説を書いてみたいというきっかけが何よりも重要であると思っている。
 何日ぐらい前から募集していたのか知らないが、もし、一カ月前から公募したとしても狙いは比較的短い、ネット上で簡単に読める小説を狙ったのではないか?
 いわゆる、スマホ上で読める小説を狙った企画なのであろう。小説も時代とともに変わって来ている、そんな中で現在のメディア環境で求められる小説とはどのようなものなのであろうか?を考えざるを得ないがそんなことは私が考えるに及ばない。それはまともな小説家、つまりこれで生計を成り立たせている人が考えればよい。

 今回は冒頭の朝ドラの話である。つまり、一般的な創作物語と事実ベースの創作物語についてである。ここ三回ばかりのNHKの連ドラ「虎に翼」「ブギウギ」「らんまん」とその前の「舞い上がれ!」の違いである。これら4つの連ドラを見るとここ3回の連ドラと「舞い上がれ!」の差は歴然としたものがある。
 その差はなにかと言うと事実物語と創作物語の面白さの違いである。そして、最近の連ドラを見て判断する限り明らかに事実物語の方が面白いのである。
うがった見方をすると事実物語は神の創作物であり、創作物語は人間の創作物なのである。そう考えると歴史に残る文豪とは神に近い人である言えるだろう。

とくに小説は意外と地域性があるもの、世界中の人が認める小説や小説家とは限られている。したがってそのような人を称賛するためにノーベル文学賞と言うのがあるのだろう。
 つい最近ここ50年くらいのノーベル文学賞を授与された方の名前のリストがあったので見たのだが昔は私でも知っている作家、ヘミングウェイやスタインベックなど知った人をリストの中に見出したがここ10年くらいは知っている方はカズオ・イシグロ以外いなかったし、それらの人物の出身国を見ると意外とこれも初めて聞いたような国の人が多かった気がしたが、かえって、あまり知られていない国の中で生きる人を描くことで人間とは何か?という基本的な問題等を考えさせる機会を投げかけることなのではないか。
ただ、この文学賞と言うのは小説だけではないようで以前、数理哲学者のバートランド・ラッセルがノーベル文学賞をもらった理由が彼が獄中で書いた「数学原理:Principia Mathematica」 とい作品であったようで私は後にその本を買って読んだのだがこれがなぜノーベル文学賞に値するのかわからないで迷ったものであったが要するに書かれた意味深いものなら与えるに足ると判断されるようである?

そう考えるとどんな優れた脚本でも最終形が書かれたものなのでその脚本はノーベル文学賞には値しないということはなさそうである?勿論、シェークスピアの脚本は文学に入りそうな気がするが?どうだろうか。条件として事実に範をとった脚本はそうではなく、創作に範をとって書かれた脚本は文学に値するかもしれない?
ただ冒頭の連ドラ4作品の場合一番ノーベル文学賞にふさわしいのは「舞い上がれ」になる気がしないではない。ただ、不人気だった理由は脚本は素晴らしいが演出がまずいために面白くない連ドラになってしまったということになるのか?
                           2024年6月17日

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