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Column

文学とは何か?その初歩的考察

 曲りなりにも作家業を高らかに喧伝している身としては通俗小説と文学の違いが分からないというのでは笑い話にもならない気がして、嫌いな作家の代表である文豪夏目漱石の諸作品を読んで理解を深めようと思って、4冊目の「三四郎」を読んでいろいろ得るものがあった。
 何といってもその最大の収穫は文学とはこういうものかという実感である。
文学とは人間の物語であるということだった。たとえば、とある人間が人を殺めたとする。そして、それを隠し通し、いつの日かそれが分かり追われる身になったとする。それに関して、文学(芥川賞)と通俗小説(直木賞)のちがいを分かりやすく言うと芥川賞=文学の場合、人を殺めた主人公の心の動きを微に入り細に入り書くのが文学であり、直木賞=通俗小説の場合その犯人逮捕から逃れるための経緯や特定された後の追跡者から逃れる物語を中心に描くことの違いである。基本的に主人公は殺人を犯した人物であるが、文学の場合その人物の全人格を基本にして、生い立ちや、殺人に至った経緯それも殺した人物と殺された人物の心のうちに分け入って、その行為がどのような意味を持つものなのかを書くことである。
通俗小説の場合たとえば第二テーマとして”逃亡“を決めたとしたら、殺めた主人公の逃亡の物語を面白く、その時代の世相などの中で展開することになるのである。たとえば海外にうまく逃げて、アジアもしくはヨーロッパ、南米、などに潜伏した犯人を追いかけるなどの現代ならではの活劇小説も可能であるし、たとえば犯人として警察から捕まり、裁判にかけられて刑期が決まり、どこかの刑務所に収監された後にそこから脱走するという物語を書こうと思えばかけそうである。いずれにしても売れればOKであるので小説家をめざす人には自分の資質にあった方を選択をすればよいのである。

 そうやってみると私が書こうとしたのは通俗小説の方でどうみても文学ではなさそうである。ただ、いずれにしても読んで面白いのが基本であろう。
 司馬遼太郎さんは直木賞作家と言われているが確かに典型的な意味でそれに当てはまる作品がほとんどの様な気がしないではない。しかし、といっても文学の必須条件と私が考える主人公の心の中にあるものを伝えていないかというとそんな事はなく、その人物の何か本質的なことを教えてくれているので、文学、文学と上段から構えた小説より、より本質的な意味で文学の様な気がしないではない。いわば通俗小説の分母を持った文学小説と言えるのではないか。それだから司馬文学といわれ、多くの人、特に企業経営者などの世の中であらゆる経験をしてきた人達の座右の書の第一位に司馬遼太郎の作品が占めるのであろう。

 でも、漱石を読んで感じたのは漱石が取り立てて文学作品を意識して書いたのではない気がしている。最初の作品「吾輩は猫である」は漱石の小説の第一作らしいが新聞小説ということでいわば万人受けをするような新しい切り口を持った作品を書いてみようと思ったのではないか。彼は才能ある人、特有のシニカルなとらえ方で世の中をみて、かれ特有の切り口で語る傾向が強い人物であり、それをまともに書いたら人格を疑われるのでそれを猫に託して書いたような作品になったのだ。そのシニカルさが漱石レベルのものなので知的な読者には受けたのであろう。人が言っているのではなく、猫が言っているのが知的な読者には受けて、その結果、漱石と朝日新聞はそのような人たちが読む新聞というアイデンティティーとマーケティングポジションを獲得したようだ。それ以後、漱石は新聞小説としては難解な文学小説を朝日新聞の読者に向けて書き続けたのであった。

 私は漱石を読むことで文学とは何かを知ろうとしたのだが、一番感じるのはとりたてて主題にするようなテーマではないようなありふれたテーマながら、それなりの長さの興味深い物語を書き上げる力の凄さである。先週読了した「三四郎」は書かれたテーマとしては凡庸な作家なら小説には出来ないようなテーマを良くこれだけ書き込んで読者を最後まで読ませるか?という力である。別に大事件があるではなく淡々と田舎での東大生(三四郎)の学生生活を丹念に書いているだけなのだ。それを私が飽きもせずに最後まで読んでしまうのである。
                           2023年10月23日T.I

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