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Column

アドホック人生論

漱石の「道草」や「三四郎」を読んで、なるほどこのような自分自身のネタが小説になるのかと思った。まさに私小説の様な気がしている。私小説という分野は想像力に劣る作家の逃げ場のようなものと思われるが、漱石はそれをネタに日本最高?の文豪になったのだから、それはそれで凄いと思った。

ただ、それには背景があって漱石の私小説の背景にある世界がいわゆる、俗人が憧れる世界の話なのでそれに価値があるのだと思ったのだろう?
たとえば道草などは確かに漱石の悲惨な人生の始まりを克明に描いている。しかし、それとてあの時代、庶民の大半みはかなり憧れに近い人生だったのではないか?という気がしないではない。なぜならば当時の道草の主人公の年収は800円、現在価値で言うと2000万円くらいであり、その上、大学教授という社会的に天上のような人だからである。
漱石は自分の人生の悲惨さを語りながら、自分の人生の成功譚を書いている気がしないではない。そのあたりについて精神分析家の書いた漱石論があったとしたら読んでみたいものである。漱石の屈折した人間像を紐解くことは彼の文学と同等の価値があるに違いない。
 いずれにしても、漱石のユニークな文学はあの屈折した人間漱石ならではのものになっている。悲惨な人生を悲惨に書いたら棒にも箸にも掛からないからだ。
ただ、個人的には三四郎を読んでこれは価値があると思ったことは地誌学的に価値があると思ったことだ。たとえば三四郎の通う東京帝国大学の近辺が地理的にも文化的にも舞台になっている本だからである。正直、東大などという場所にはこれまで全く縁のない人間である私が何となくあのあたりで近いのではないかと思われる唯一の知っている場所である真砂坂下をGマップで調べると東大が近いことが分かった。
そして、その東大に中心にズームアウトしてみるとなんと!東大は不忍池の裏にあるではないか、そしてそれを更にアウトしてみると国立西洋美術館、国立博物館、東京都美術館、国立科学博物館、東京文化会館そして上野動物園・・・!いわゆる文化の中心なのだ。
漱石はそこに九州の田舎の秀才を置いてその目から見た物語、いわゆる文明論を書こうとしたのがどうも小説「三四郎」の狙いだった気がしないではない。正直、過去を知らない人間にとってそれまでそこが日本の文化の中心であったというのが大変な驚きなのである。
人生、80年近く生きて、最後に思わぬ得をした気分である。
 
 歳を取ると寝るのが早くなる、おかけで丑三つ時に目が覚める。最近はまず読みかけの本を読むことになっている、現在は「三四郎」である。
この本はよく考えるといわゆるライフスタイル本である気がしている。いわゆる「知的生活」のライフスタイルである。この知的生活とは上智大学の教授であった渡部昇一氏の啓蒙したライフスタイル本であるが。私が思うに漱石の本はすべてが知的生活の本の様な気がしないではない。すべてとは清濁併せ呑んだのが夏目氏で、綺麗なところしか飲まなかったのが渡部氏である。
二人が共通点は言わばイギリス起源の生活スタイルという事かもしれない。そして大きな違いは漱石の方がより具体的で、現実的であるということだ。
 そう考えるとどんな人でも知的人生を送ることができるということを書いたのかもしれない。漱石は新聞小説としてこれを発表していたわけだから、日本人のだれでも手が届くような知的ライフスタイルが可能なのだという事を意識しようがしまいが伝えようとしたのではないか。
 お陰で彼と専属契約をしていた朝日新聞社は知的新聞の筆頭にあげられているようである。個人的には嫌いな新聞であるが。朝日新聞のイメージはそれ以来、知識労働者のシンボルになったようである。それに日本経済新聞を組み合わせて購読している読者はその知識が金儲けに結びついていることを象徴的に表すようになった。私はビジネスをやめてから日本経済新聞をやめたが、本当は朝日新聞をやめて、日本経済新聞一本にしたかったのだが家人が朝日新聞を読みたいとの理由で仕方なしにそうなっているのだ。たしかに日本経済新聞社が提案する今晩のおかずなどはどうみても作る気になれないことは確かだ。

 本稿のタイトルはアドホック人生論ということで本来はその都度妥協とつじつま合わせをした私自身の人生を振り返ってみたいと思い書き始めたものだが、漱石の話に引っ張られてしまったのでタイトルと内容が全く違ってしまったが後日、検討してみたい。
                             2023年10月2日

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