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Column

それにしても・Ⅱ

 今回の内容はここ1ヶ月に本エッセイで書いた二つのテーマの話に関連している。
それは7月31日付けの「Asahi Weekly」と8月14日付けの「それにしても」である。

 私は目黒区に小学校4年生の時(1955年)から、1986年までの31年間住んだことになる。したがって、小学校、中学校、高校、デザイン学校と12年間の学生生活は目黒区に住んでいた時である。もう77歳になるがその中でいわゆる、クラスメートから音信があるのは高校以外の三校だけで、年賀状などで互いの消息を確認する程度のものである。
したがって、同窓会などはもう終了かもしれない。小学校と中学校の同窓会は健在かもしれないがコロナがあってもう4年くらい開かれていない。だから消滅するかもしれない?
 私がそれなりに同窓会が開催されると、ともかく顔を出すので幹事が何かとラインなどで連絡をくれるからである。それでも、公立の小学校、中学校のクラス会が半世紀近く続いているというのは奇跡に近い。
 私が同窓会に出席するのは人生が垣間見られるからである。何年か前に「70歳の同窓会」という本を上梓した。この本は同窓会に出席したことから生まれた物語であり、私自身の物語でもある。ちなみにこの本は電子書籍kindleで読むことができるので興味がある方は是非・・・

 本題に入る。8月13日に中学校の永世幹事のN氏から“鈴木夏さんが亡くなりました”との短いラインが入った。その前に不在着信が入っていたので、まずラインで鈴木夏子さんの事か?鎌倉にお住いの?を確認をいれて、電話をした。
 それにしても偶然だなと思った。というのが7月31日付け本項「Asahi Weekly 」の英語の話でJALのCAで活躍された彼女の事を書いたからである。そして、彼女と言葉を交わすようになったのは300人近くいる四中の同窓生で唯一、鎌倉に住んでいたからである。
 N氏の話では亡くなったのは3月14日で、彼女の誕生日は明日の8月14日で、ガンで亡くなられたという話であった。その次の日、彼がなぜ彼女の誕生日を報せたのかが、分かった。77年前の夏に生まれて、両親は夏子という名にしたのだろうということが分かったからだ。五木寛之の小説を50年先取りしているな?と考えて、彼女の両親の焦燥を考えると,いたたまれない気がした。
 
 前回のクラス会で「浄明寺から、夫の実家の西御門で越したんですの・・・」と言ったことが頭に残っている。西御門あたりは鎌倉でも一番、鎌倉らしい地域である。「いいところに越したね、これからどこかで会えるだろうね?」といったが会うことはなかった。
 亡くなった人のことを思う時、一千万分の一の確率でも会うことがないということで、それを考えると、一部の人を除いて悲しみに襲われるものである。那智わたるさんに比べると鈴木夏子さんに会う確率はグンと大きくなるはずであったからだ。
 そんな焦燥を考えると涼しくなったら会えるべき人に会っておくか、電話でもして話しておこう。そう言う人が加速度的に増えそうである。
 
 それでオマケの話、私はそれをすぐに実行したのであるN氏の電話を切った後、中学校の時の恩師山田益男先生に初めて電話をする。92歳である。電話口で高齢者特有の声色に混じって中学校時代の声が電話口から聞こえる。早速、ドウラン?の話!NHKのテレビ小説「らんまん」の話である。かれは真に四中の槙野萬太郎だったからで、すぐに彼とかかわりがあるホシテンヒメアオキの話になる・・・92歳になっても現役だ!やっぱり四中の槙野萬太郎だった。
                            2023年8月28日T.I

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