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Column

「慎慮と洞察」について

「慎慮と洞察」を読み返して日付をみると2010年からであるが、書き始める前の目的や意図は覚えている限りそれより古いかもしれない、また、2010年としても16年間毎週一遍書いているので大変な量である。文字量としては聖書より多いかもしれない。一年は52週あるので単純計算すると832編であるが、それからの分まで含めると1000編くらい?はあるかもしれない。
 人間一人の生きざまともいえるものなので、この1000編は基本的に「泉利治という人間が感じたこと、思ったこと」である。
基本のテーマはデザイン、マーケティング、ブランドという仕事に従事した一人の人間の記録である。その当時の現在形の記録であり、その後日談である。その根底にあるのは新たなビジネス分野への創造の記録とでも言うことなのではないか?
 私は当時、これから注目されるビジネス分野と言われている分野を駆け抜けたのである。私の前にはその職業はなく、私の後にその職業があったと言えるかもしれない。ただ、それは意図してそうしたわけではなく、結果としてそうなったということであるかもしれない?カッコよくいうところの時代を先駆けて、時代をつくった・・・・という気分が感じられるとしたら、それは高揚した若さゆえかもしれない。
最初はデザインだった。しかし、これが今後、流行ると言っても、その段階では何の保証もなかった。つまり、デザイン学校を卒業してもだれが彼を雇い、給料を支給してくれるのかわからずに何も知らない少年少女から高い授業料を取って、何らかの根拠を与えつついわゆるデザインスクールは誕生した。当時、私はそのいくつかのその学校の募集要項を新聞で目にするようになった。
 私は自営の新聞販売店で新聞配達をしながら、朝刊に載っていたデザイン学校の補欠募集の広告を見て、“ホォ!”と思った。面白そうだ。修業期間は3年間。高校や中学と同じだ。しかし、入学試験があるという?どうだろうか・・・不安はあるが一かバチかやってみるか?私は入学願書を取り寄せて観てみることにした。ただ、記憶ではそれくらいしか何も思い浮かばなかった。
 筆記試験+実技+面接だけであった。面接は建築家の星野昌一教授だった。教授は1991年83歳で亡くなられたが日本のバウハウスを創るというビジョンに賛同して東京デザインカレッジの一翼を担っていただいたのだが怖い感じの人ではなかった。また、グラフィックでは大智浩教授であった。私が専攻した工業デザイン科は五十嵐治也教授であり、いま考えると皆さんは忙しい中、熱心に教えに来てくれたという感じであった。
 プロダクト科の主任教授のような五十嵐先生は卒業式の夜にプロダクト科の学生を連れて赤坂にあった上品なキチンとした割烹店に連れて行ってくれた。私はそこではじめて熱燗の日本酒を飲んだことを覚えている。その時に私は音楽の勉強をしたいのでもう少し学生気分を味わいたいというようなことを言ったことをおぼえている。ただ、現実は何をして良いのかわからない中での人生の船出であった。ともかく、他の連中は曲がりなりにもデザイナーという職に就くことが決まっていたので、それなりに格好がついていた。
 ただ、結局、私はデザイナーになったのであるが、それは3年くらいの後で、その間、私はフルートの練習を一日5時間以上練習して、その合間にピアノのレッスンに通っていた。ただ、日々の糧を得るために牛乳配達をしており、毎朝4時~7時くらいまで配達をして日々の生活の糧は稼いでいた、しかしその生活は客観的に人の理解を超えたものであった。そのころ、その牛乳屋で仕事をしていた人たちは皆、人生の浪人ばかりであった、たとえば弁護士をめざして司法試験に挑戦している人や、英語を必要とする職業に就くために専門英語学校に通っている人たちであった・・・
 今から考えるとかれらはゴールをめざしていたが私の場合は結果としてスタートラインに着くための勉強していたのであった。なぜならば、音大に合格して卒業した後に彼らと同じような現実的なゴールがあったからである。たとえばどこかのオーケストラのフルーティストとして採用されるというようなことである。
 それに気づくまでに1,2年を要したが、私は結局デザイナーとして理想的な企業HONDAに入ることができたが、今から考えると奇蹟のような気がしないではない。奇蹟とは、たまたまデザイナーが辞めて欠員が出たことと、その欠員をうずめる格好の人材の募集があったからだ、私は毎日新聞の小さな人材募集欄の「アミューズメントデザイナーの募集」の広告を見て、私の学生時代の課題記録がフィットするのではないかと思ったのであった。
 私は実際、他の学生よりは3年間真面目に授業に、課題に対峙してその記録を残してきたからであった。それを見せたら私がどんなデザイナーをめざしているかが一目でわかるはずである。あの時代、まじめに自動車のデザイナーをめざして学業に取り組んだ人はほとんどいなかっただろう。私がそこに着眼できたのは偶然、銀座の洋書店イエナでイタリアのカーデザイナー雑誌を目にして購入し、ほぼ2年間授業でそれに取り組んだ結果である開発作業記録を残していたからであった。HONDAの面接官は有名な塩崎定夫専務であった。入社して思ったことはこの事業所でデザイナーたちが取り組んでいる仕事である、デザイン画、図面、モデルなどが私が学校の課題として取り組んでいたという幸運が入社の決定打になったようであった。塩崎専務はそんなものを見てデザイナーに指示していた彼であった。
 あとで同僚になった人に聞くと“今度、いい奴が入ってくるよ”と在籍していたデザイナーたちに言っていたらしい。確かにそこは私が勉強してきたことを100%活かせた職場であった。したがってデザイナーという職は私の原点であり、私の最大の価値を発揮できる職業であった。
 私は13年間その会社にお世話になったのだが、今でも人生で一番記憶に残るような楽しい毎日を送った気がしている。HONDAで工業デザイナーとして仕事をしているということはかつてのデザイン学校のクラスメートにも自慢できた。また、それは社会的な意味でも出来すぎの感があった気がしないではない。それ以上にその実績がその後の私の背中を押してくれた気がしている。                
  2026年6月22日

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