ブランドワークス

Column

くさっても鎌倉

 わが家が鎌倉に住んで40年近くになる。正しくはその10年前に母が住み始めた?ので、実質的には半世紀、鎌倉に住んだことになる。実際に私たち家族が鎌倉に永遠の居を求めたころは土地ブームでその矛先は田園都市線の青葉台あたりがトレンディな地区だった気がする。したがって、何となくそのあたりの土地を求めて出かけて地域の不動産店を訪問し物件を紹介してもらいながら家内と二人で出かけたことを思いだす。しかし、意中のところは見つからなかった。
 ところが何かの拍子で?藤沢の友人から湘南の方を探してみてはどうかという話を聞いた。藤沢や逗子、そして鎌倉地区であった。ただ、最初にそこに目がいかなかったのは距離であった。田園都市線する意中のところが通勤時間が短かった。それに比べると藤沢や逗子、鎌倉は絶対時間が遠い気がしたのであった。
 しかし、不動産業者に会うことにした。彼は物件のチラシを数枚持ってきた。それを見て私は唖然とした。この物件が1億円?・・・数百坪の年に豪邸が建っていたものがその値段なのであり、なんとプールまで付いている物件もあった。
「なんでこんなに安いのか?・・・何でなんですか?」私がそう聞くと、藤沢の不動産屋さんは「都心に職場を持った人にとって田園都市線を利用すると鎌倉や藤沢に行くより時間かからないのですよ、それとあのテレビドラマの影響ですかね?・・・”金妻!“
私はそんなことも知らずにあの辺を探し回っていたことに今さらながら赤面した。そんなことを知ると、30分くらい早く電車に乗らなくてはいけないが1時間余計かかったとしても田園都市線はありえない。まして、鎌倉は我が家の第二の故郷ともいうべきところなのだ!
 そう決めると早かった、と言っても鎌倉らしい雪の下や浄明寺などは著名人が住む高級住宅地としてすでに物件はなかった。そして、すべて高価格帯であった。いわゆる、鎌倉の名士たちの住まいが多いのだ。鎌倉山も良かったが物件がほとんどなかった。
そして重要なことは通勤時間を考える必要があった。雪の下や浄明寺は住むにはいいが、通勤を考えると鎌倉駅に行くまでに家を出てから30分位はかかる?そこから横須賀線で東京駅まで?そうかんがえると、家を出てから会社まで2時間かかる可能性もある。それを考えると北鎌倉駅か大船駅を最寄駅にすることが現実的であった。
 結局、私は家から自転車で大船駅、もしくは北鎌倉駅まで自転車で行き、そこから、電車に乗るということであった。結論は北鎌倉駅であった。北鎌倉駅には自転車で通った。そして駅が小さく、駅のすぐそばに駐輪場があり、低価格で借りることができた。北鎌倉駅は小さいので改札口からプラットホームを経て、電車の扉まで1分もかからないかもしれない。
 横須賀線は東海道線に比べると空いており、乗客に質も良い気がした。その上、東京駅でのホームは地下3階だったが半蔵門線などとの繋がりがよかったのだ。若いころと違い帰り道で寄り道をするという年齢でもなかったので帰り道で便利なことは神田の古本屋街に近いくらいであった。ともかく仕事が忙しく早く家に帰りゆっくりしたいという年齢だったのでその通勤ルートで十分であった。

その後、25年近く北鎌倉から都心の会社に通った。PAOS,インターブランド、そして、私が立ち上げたブランドワークスの3社である。
インターブランドでは役員だったが通勤定期をグリーンにしてほしいと言ったのは見栄ではなく電車の中で仕事をするからであった。その当時、私はインターブランド社(IBJ)のナンバー2であったがグリーン車で通勤したのは最後の半年くらいであった、3人の役員のうち電車通勤は私だけだったが、グリーン車通勤を申請しなかった。最後に申請した理由は電車の中で守秘義務のある資料を見る必要があるからであった。ある時点からグリーン車で通うようになったが半年くらいだった気がしている。私は二人役員、とくに社長と仕事上のことで方針が合わず辞めることになった。 イギリス人の社長はどんな仕打ちをしても私に高給をあげているので辞めるわけはないと高をくくっていたが辞表を叩きつけてやめたのである。金のために自分のプライドや信条を差し出すのは主義ではなかった。結局、年収?千万円をくれてやったのだ。

 そのIBJでは、ナンバー3の平取締役が昇格して会社を切り回したが会社創設以来初めての大赤字を出した。話を聞くとアメリカ本社からも責任を取って頸にするようにとの密命が社長にあったようで、馘になった。
その副社長は自分が辞めざる得なくなった時、私の会社に来て、事情を話して私の会社に入りたいようであったが、私は激しく拒否したので、後で共通の友人のような女子社員にあれほど私が彼を憎悪していたのか?を驚きと、悲しみの口調で話したらしい。
 結局イギリス人の社長は自分の右腕と左腕の様な日本人役員を二人失ってしまったことになるが、彼はその後、退任、数年で癌を発病し70歳にも満たないで住まいのあるオーストラリアで亡くなった。日本で彼をしのぶ会が開催され、私はかれとの思い出をスピーチした。晩年、彼はそこでモンスターのようなベンツを乗り回していたようである・・・
結果として3人三様、全員が敗者のような気がしないではない。
余談になるが社長は一時、私の会社があった麻布十番あたりに出没をしたことを私の会社の社員が何回か見かけたが、私は運が良いのか?悪いのか会うことはなかった。もし会っていたらその社長を支援してあげても良いと思っていたくらい、その頃の新会社は上手くいっていたのであった。
                                IZUMI!260511

Share on Facebook