認知症とは加齢に伴って薄れゆく記憶のことである。最後は自分の名前すらも忘れてしまうらしい。70代で最近物忘れが多いと気付き始め80代で生活に支障が出るくらいの物忘れになり、90代でややもするとじぶんの名前さえもわすれてしまうのだ。
私はあと半年で80歳になる。80歳になった途端に生活に支障が出るということもないであろうが、徐々にそうなる気がしないではない。昨日、93歳の人が迷子になり自分の家に帰れなくなり保護されたらしい。彼は80キロも離れた場所で自分の家を探していたことが分かって迷子になったらしいが。本人その現実を知って、「昔は人を指導していた自分なのだが・・・」と思ったそうである。
人は記憶を通して人間になる。と思うので記憶を失っては人間ではなくなるのかと?聞き返されたら困ったことになるが、反面、記憶を通して自分自身,つまり、アイデンティティを確立するというのも真実ではなかろうか。
認知症に関しては医学の発達で徐々に解決される問題のような気がしないではないが、何とかしてほしいものである。ただ、よく考えるとこれは人間が長生きすることによって派生した病気のような気がしないではない。明治時代の人の寿命は40歳前後と言われているので認知症などが社会問題になることはまったくなかったと言えるのではないか。いわば、今の人は明治時代の人よりも2倍も長生きするからなのである。
これを書いてみて、知的な人はそれには当てはまらないのでは?と思っていたら夏目漱石は49歳で亡くなっているので、どんな人でも平等に命は与えられたようである。したがって、明治時代の人には認知症という病気はなかったと言える。この病気は多くの人が加齢を体験するとともに確立されたのだ。
私がここ半世紀くらい尊敬している人物はバートランド・ラッセルであるがその最大の理由は彼が97歳まで生きたことで、そこまで生きて勉強したことで人類の英知の代表と言われるようになったことからである。それ以来、彼に対する畏敬の念は揺るぐことはない。それを裏付ける一つの逸話はアインシュタインが相対性原理でノーベル物理学賞をもらった時、当時、世界でその難解な相対性原理を理解している人は2人しかおらず、もう一人はバートランド・ラッセルだけだと言わせしめたからである。
頭が悪い人間にとって頭が良くて、善人であることは憧れである。頭がいい証拠という分かりやすい理由は、たとえばノーベル賞をもらったからということだ?という理由を50年前に考えたのだが、彼はノーベル文学賞をもらっている。はじめ文学賞というから小説でも書いているのかと思った。ただ、どうも彼が文学者ではないし?と思い調べたら「数学原理」という文学?がそれが授与された理由であった。今でもその文学賞の定義は分からないがいわゆる、如何なる内容のモノでも本を出して、その内容が文学にふさわしいとノーベル賞の選考委員たちが承認したらノーベル賞をいただけることになる。その本はラッセルが何らかの罪で刑務所に収監された時に暇に任せて書き上げた本なのである。「数学原理」というその本は岩波文庫で読むことができる。難解だが読みやすい?ラッセルは人生で一番頭がいい時は「数学」をやり、次に頭がいい時は「哲学」をやり、まあ一番頭が悪い時に「歴史」をやったと言っているが、その刑務所で収監されたときが一番頭がいい時であったのだ。
そんな本なので私の頭ではわかるわけはない。その点、彼の「西洋哲学史」大変面白かったと記憶している。
我が家の一番立派な書棚の一番上に「バートランド・ラッセル著作集」が鎮座しているがこれらの本はまとめて購入したのではなく古本屋で偶然見かけた時に購入したものである。全巻をまとめて買うと値が張ったものになる。偶然、その中の一冊を本屋で見かけて買うから安からである。ゲーム感覚で購入したのである。だから、全巻は揃っていない。
ちなみに認知症になっても活字は読めるので何ら差支えはないのである。理解の度合いに問題はあるのだろうが、正常な頃でさえラッセルの本は難解であるのでちょうどいい。したがって、認知症になったらヘーゲルでも読むといいかもしれない。
2025年10月2日T>I













