ローマ教皇の選挙のたびに思い出す事と言えば、2000年近い歴史があると思われるローマ教皇がローマにいられなくなって、本拠地を変えたことがあった。その唯一の本拠地がフランスのアビニョンであった。
ヨーロッパ通の私もアビニョンという都市の名前を知らなくて。どんなところなのだろうと思ったが知る由はない。今なら、その数秒後にスマホにアビニョンと入れれば何から何までフツーの人が知りたいような情報がこれでもかと、いうくらい送り着けてくる。
今から考えると便利な時代である。ただそれが良いとは限らない。その時、そんな情報環境だったとしたら私はアビニョンにはいかなかったであろう。
多分、それらの情報に接していろいろ調べるうちにアビニョンに対する興味も薄れ、そんなところより別のところに旅行先を変えたに違いない。
当時の旅行案内書を見てもアビニョンに関する情報はせいぜい2ページがあればいいくらいで、それを読んでもローマに代わる教皇の本拠地にしたような大都市の理由がわからない。そんなことなので家内も小学生の娘もまったく判断がつかないまま親子3人はアビニョンへの4日間の旅に旅立ったのであった。
確か?我々は直接アビニョンに行ったのであったが、28時間かかったということだけが30年近い前のことでも鮮明に覚えている。かみさんが疲れた顔で
“あとどのくらいで着くのかしらね?”聞いた。たしかドゴール空港でアビニョン行きの
飛行機を待っていた時の話である。待合室で膝に寝ていた娘の顔を見ながら不安そうにそう言ったのを覚えている。ただ漠然とパリからアビニョンまでの距離を思い描き、何となく国内便なので一時間半くらいで着くのではないかと思い、それでも暗くなるだろうということはわかった。周りの席についている人で日本人は我が家族の3人のみで、どんな空港でTAXIくらいはあるであろう?というくらい想像以外に何も思い浮かばなかった。
黄昏時にパリ、ドコール空港を飛び立った飛行機は中型の旅客機でしばらくして漆黒の空を切り裂くように飛んで行ったのを覚えている。そして、真夜中の飛行場に着いたのは1.5時間後くらいではないか?空港特有の華やかな雰囲気は何もない、人と言えば同じ飛行機から下りた人たちだけで、その人たちもすぐにいなくなり、私たちだけになった気がしている。
「タクシーは来るのかしら・・・?」
座る人がいないベンチがあるのでそこに寝ることになるのかな?と漠然と思ったが、忘れたころにTAXIは来た。
「オテルde ミランダ」というと運転手は頷いた。タクシーは漆黒の闇に飛び込んだ。ところどころで家々の窓から光が漏れているので人がいるのがわかる。30分くらいすると城門の中にタクシーは入って行った。アクリルの行燈の看板にVETNUM??と書いてる。ワインの瓶が書いた行燈の看板なのでベトナム料理の店らしい。ベトナムは確か?フランスが統治していたことを思い出した。城門の中をTAXIは少し走ると大きな邸宅の前でタクシーは止まった。ラ・ミランドである。
私は30年ぶりぐらいかもしれない?本棚からPORTRAITSD‘HOTELSを取り出しラ・ミランドのページをめくった。息をのむようなページをめくるとこのホテルは1688年に建立された。アルノー・ド・ペリグリュー枢機卿の屋敷であった。瀟洒なホテルである。
絵にかいたような美しいカットの写真に微かな記憶が甦る。食堂は記憶がはっきりしている壁一面のガラス棚の中に美しい陶器の皿が数えきれないくらい立てかけてある。
翌朝、一番で食堂に入る。何言わなくともテーブルに案内される。メニューを見て何か注文したのだが、テーブルの大皿には山盛りのパン、取立ての蜂蜜の壺とガラスのスプーン。コーヒーが運ばれてくると昨夜から食べていない胃袋が俄かに騒ぎ出す。そして・・・
アビニョンに着いたのだ。
2025年5月26日T>I