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Column

60年目のエニカの修繕

 どんな人でもいわゆるこだわりを持つモノというのはあるものである。たとえば男性なら自動車がそうだ。その実、私もそうなのだが、もう一つが腕時計である。
エニカシェルパという腕時計は19歳の時に母から買ってもらったもので、当時の価格が33000円であった。当時、フツーの男性用の機械式腕時計が3000円で買える時代である。   
エニカシェルパは機械式のスイス製の後にダイバーズウオッチと言われる分野の腕時計で第一次南極観測隊の越冬隊隊員へ支給されたものであった。その広告をエコノミストという経済雑誌の裏表紙で見かけてそのデザインに魅了されて以来ずーっとほしいと思っていた憧れ腕時計であった。
 私たちの時代では中学生になると何となく腕時計をして学校に行った記憶があるがその時に私がして行った腕時計は父が何十年か前にしていたものであった。銀色で、文字盤が白く、小さな秒針用の文字盤があったものである。その腕時計は10年以上前から父が使わなくなったということから母が箪笥の小さな引き出しの中に納めてあったもので、いずれ大きくなったら私がもらう約束をしていたものであった。
 私は時々、母の眼を盗んではその時計を取り出しては飽きるまで見ていたものであった。
大きくなったらその腕時計ができるのだということで早く大きくなりたいという願望がその腕時計とともに大きくなった気がしている。
 それがやっと中学生になって実現したのであった。中学校のクラスメートと腕時計を見せ合ったりしたが皆似たり寄ったりの銀色のステンレス製で白い文字盤のそれであり、まあ、代わり映えのしないものであった。
そんなある日、私は経済専門誌のエコノミストの裏表紙で信じられない腕時計を発見したのであった。それは黒色の文字盤で三針の時計で時計の外側にも文字盤があり、写真ではわからなかったがそれは動いてメモの代わりに使える特殊な文字盤であった。その時計の素晴らしさはその時計が持っているデザイン的なプロポーションである。長針と短針のデザイン、夜光塗料のデザイン、それ以上に素晴らしいのが秒針である。機能的でありながら、その秒針だけは何となくバロック的な切り込みの縁でその先端に夜光塗料が施されているのである。今、見てもそのデザインの妙と感動は60年経っても変わらないから不思議である。

 しかし、それを手にしたのはそれから7,8年たった19歳の時であった。今でも思い出すが、私は高校を卒業して、次をどうしたものかと思いながら家業に勤しむ毎日であった。
新聞販売店を経営していたことから月に一度、毎日新聞の本社がある有楽町に出かけて、納金するのが店主の重要な仕事であった。ときどき私も母に同行して本社のある有楽町に一緒に出かけたものであった。
 有楽町のそのあたりは活気があり、本社に行くと有名な映画俳優なども見かけることもあり、何かと面白いところであった。母にとってはその頃、開店したそごうデパートがお目当てだったようだがそこはやはり、目黒などに比べると手にはいらないものを見られる、買うことができる、ところであったのだろう。
 そんなある時、デパートの一番上の催し会場でスイス製の密輸時計摘発セールというのが開催されていた。時計好きな私は母にその階に行ってみようと言った。そこでもしかするとあのエニカシェルパを見ることができるかもしれないということが閃いたのであった。
 あの当時、海外の腕時計は関税が高いためスイス製の時計は密輸して大儲けできた時代のようであったのでよく摘発され、没収したものを払い下げてそれを相応の価格でデパートなどで販売していたようであった。
 母と私はガラスケースに入っている密輸時計を見て回ったが、そこにあの憧れのエニカシェルパを発見したのであった。私はそこから動こうとはしなかった。そしてその時計の説明を母にした。そんな時、もう一人の男がその時計を指名してガラスケースの上で見始めたのであった。私はそれを見ながらその場を離れたが母は私がそれを欲しがってるのが分かったようであった。
私たちは会場の出口まで上の空でガラスケースの時計を見ながら帰ろうとしたら、母があの時計を買ってあげるからもう一度売り場に戻ろうといった。わたしは信じられない思いで母を見て、急いでその売り場に戻った。あとでその理由を知ったのだが確かに30000円近い腕時計は当時としては破格モノのだが家業を手伝っている私に買ってあげたいと思ったようであった。というのはその時、母、本人も忘れていた、弟の伝次郎さんに昔、貸したお金が返されたからであった。

私たちはその時計が展示してあった場所に戻ったが、時計はなかった。母が店員を呼んでその時計はどこにいったのかと聞いた。
“先ほど売れてしまいました”
“同じものはありませんか”わたしが聞くと。
“ありません、どこかの時計店にあるかもしれませんが・・・”
私は下を向いたままは無言で有楽町駅まで歩いていると母が
 “どこかで探したら買ってあげるから、探しなさい”と言ったので、何か一筋の光が見えた心地がした。
そして、それから時計店巡りが始まった。私は家業の暇を見つけて、まず武蔵小山商店街に大きな時計店があったのでそこから、目黒、渋谷と時計店めぐりをした。それらの店の探索は数日でことたりた。そして、次に気づいたのは飴屋横丁である。アメ横はジーンズを買いに何度か行ったことがあり、そこにはその名の通り飴などのお菓子の他に化粧品、ジーンズなどの衣類、そして、乾物、そして海外の時計があったことを思い出したのである。
 アメ横に焦点を絞ると出かけた。時計を扱っている店は思いのほか多かった。そして、念願のエニカシェルパを発見した。お店の男の人に指さして、見せてもらった。あの時の感動が甦った。
“これいくらですか?”聞いた。専用の箱に入っていたそれを取り出して。
“これが価格だよ。”
“どうしても欲しいのです、以前、目の前で買われてしまったので・・・・”とこの時計とのいきさつを店にいたおじさんに話した。
“じゃあ、そんなにこの時計がほしいなら、25000円でいいよ。ただ、一週間だけ取っておいてあげるよ”と親切にそういってくれたので。
“必ず来ます”といって、喜び勇んで家に戻り母に報告をした。母は今度こそ買わなければと思ったのだろう。もちろん、一週間もかからない前にアメ横のその店に出かけた。
店にはケースにはいったエニカシェルパが輝いていた。
“これだよ”と母に呼びさした。母はこれを下さいと言った。ただ、そこにいたのは前にいた人ではなく母と同年代くらいの女の人であった。女の人は相好を崩して、33000円ですと言った。私は驚いて。
“おばさん、何日か前にここにいたおじさんに見せてもらい、事情を話したら、25000円にまけてあげる。ただ一週間以内に来ることが条件だといわれたのです”
“あら、そうなの。・・・?じゃあ仕方ないわね”おばさんは母と顔を合わせて笑いながら包んでくれた。私はその時、御徒町から目黒の自宅まで、帰った記憶がない。そして、その時計は長い間、箱に入ったまま枕元に置いて寝た記憶があるし、その時計の立派な箱もまだ、屋根裏部屋で見ることができる。
 60年後その時計の竜頭をなくしたことで、やっと信頼のおける修理店に明日持っていくことになったのだ。上手く修理をしてもらえればいいのだが???
                             2025年4月7日T>I

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