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Column

新刊本の発刊2025

 「慎慮と洞察」というコラムを13年間毎週1編、書いてネット上に上げている。計算すると676編書いたことになる。取り立ててその時その時、思いついたことを書いているが、思いついたこととはいたって行き当たりばったりである。
中にはシリーズ物があるが、たとえばレイモンド・ローウィについて9回くらい書いている。それも最初からそれを意図したわけではなく一回書いて、書き足りないと感じて、一週間後にその間、考えたことを書きたしたのである。レイモンド・ローウィの場合は9回の連載物になったが、長いものは10回、それ以上になったものもいくつかある。また、13年も続けると同じ人間が書くので、たとえば自動車関連に言及したもの等をまとめると40篇近くになっていることに後で気づくことになる。今回出版の運びとなった、この自動車モノは36篇集めたものを一冊の本としてまとめたものである。

私はひょんなことから自動車のデザインに面白さを感じて、デザインスクールではプロダクト科の学生の中で唯一自動車のデザイナーをめざした学生であった。しかし、卒業して自動車会社などには就職できる自信もわかず、それ以上にまだ、何か学び足りないことも感じていた。そんなことからバッハに傾倒していたこともあり、何かその世界への足掛かりを探していた時期でもあった―この新興のデザイン学校には自動車関連企業からのデザイナー応募依頼などは来るわけはなく。同期の卒業生がどのような伝で仕事に着いたかわからないし、着いたとしても大企業などはありえない気がしないではなかった。
 しかし、そんなことから目覚めて、やっとデザイナーとして生きていく決意をして就職口を探していた時にデザイナーの募集広告が目に留まり、履歴書を送って一月後に、埼玉県和光市にある事業所に面接に行った。面接官は塩崎定夫氏であった。この人物との出会いが私をして、あらゆる乗り物のデザイナーへの道を切り開いてくれた人であった。当時、この人物は私が入社したホンダ系列で一番大きい会社HONDALANDの専務取締役で開発業務の最高責任者であった。かれは創業当時、本田宗一郎社長と丁々発止やりあった人でかれから創業時のホンダの話を聞けたことが貴重な体験として私の財産になっている。
 おかげで私はそこで13年間デザイナーとして様々な経験をして、研鑽を積んだのであった。ちなみに辞めた理由は私が所属していたテックプロダクションが鈴鹿に移ることになったからであった。

人生の幸せを決めるのは学歴と職歴である。ということを半世紀間、生き抜いたころに私も世の中も気づいてから、大学選び、職歴を意図した学部選びに世は奔走し始めた。
手っ取り早いのは資格を取るという方法、医者になる、弁護士になる、建築家になる・・・それを意図した学部選びだ。確かにそこは一番安全な方法だった。 しかし、そのような職歴と連動した学歴は狭き門だ。それでも一番、間違いない方法なのだ。
しかし、デザイナーの世界はまず、公的な資格などはない。あえて言うならば卒業した学校という事実だけである(十年で廃校になった東京デザインカレッジより、千葉大学の工芸意匠科の方が社会的には信頼度は高いことは間違いない)しかし、といってそこを卒業した人が工業デザイナーとして一定以上の能力を有している明確な証はない。一級工業デザイナーのような資格があれば良いが?
 私の卒業した学校は廃校になっていたので、話の発端としての役割くらいしか役に立たなかった。ただ、カレッジ在学中にデザインした課題がなければ私は箸にも棒にも引っかからなかったろう。運よく乗り物が多かった。面接官の塩崎専務はそこに遊園地の乗り物になりそうな自動車やコンパクトなスクーターなどを見て、すぐに実戦で使えそうだという感触を持っていただいたようであった。後日、同僚になったデザイナーのK氏に“今度、いい奴が入る!”と言ったそうであった。
 入社して二ヶ月くらいして、すぐに来季車両のプロジェクトチームのデザイナーとして
プロジェクトチームに組み込まれた。
多摩テックのクラシックカーのデザイン・設計である。入るなりすぐにデザインを決めろ。それしか言わない。相談相手は技術チームのS氏とH氏、年齢がほぼ私と同じくらいで二人とも高校を卒業して事業所採用枠で入社した人であった。
当時は本社採用と事業所採用があった。デザイナーはそれまでもその後も本社採用であった気がするが私は急な欠員から生まれた最後の事業所採用のデザイナーであった。
したがって、面接まで一カ月かかったのは興信所で私という人物を調べていたと後で聞かされたが、そう言えばアルバイト先の明治牛乳の販売店にも私の素行を聞きに来たということを後で知った。結果として私は社会的に信頼のおける企業に入社したことになる。牛乳配達員から名の知れた会社のデザイナーに転職したことになるが、よく考えると綱渡りの転職だった。
ともかく、デザイナーという職業は天職であったと思っている。というのは半世紀たった今でもデザインすることが好きだし、気にいったデザインされたものをみると何でも欲しくなるからだ。それは一時の流行や気まぐれでなく、そのようなモノを身近に置いて生活することで人生が楽しくなるのである。

今回の新刊本には私のデザイン観からみた自動車やそのデザイナー観、人生観のようなことが書かれた本である。今後、この辺りはまだ増えそうではあるがまず、一区切りという感じである。
気に入ったモノについて語るのは思った以上に楽しく、幸せなものである。
                            2025年3月17日T>I

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