この歳(78歳)になって無理なく書けるのが回想録だろう。どんな人生を歩んできた人でも回想録は書ける。ただし、その意味があるのかという?事に対して肯定的に考えている人と、ともかく書くことが好きな人に、などに限られるかもしれない。あと、少数だが他者から書くことを勧められた人だろう?
本稿を書こうと思った際に最初に思い出したがチャーチルの「第二次大戦回顧録」であった。1953年にノーベル文学賞を受賞したのは彼が79歳の時なので、私の今の年齢くらいで出版したのではないか、それにしても文学者ではないかれが書いた回顧録がノーベル文学賞とは読んではいないが凄い!の一語に尽きる。ライバルのヒトラーも「我が闘争」という名作を書いているのでともかくヨーロッパ人のいわゆる政治家は文学者としての素養も持っている、というより文学者が政治をやり、戦争をおっぱじめる!だからなのかもしれない。
・回顧録とは過去の出来事を振り返って記述した文書または文学作品
・回想録とはある出来事、事象、または時代に関する自身の経験を記した記録または文学作品の一形式・・・・・AIの回答より
回想録は書こうと思えばだれでも書ける。だが、一般的に考えると多分に自身の人生を肯定的にとらえられる人に限られる人だろう。あと、記憶力が良くて、筆まめな人だ。ただ、書いているうちに記憶が甦ってきて、忘却を免れる効果もありそうではあるが?
近々、kindleで出版を予定しているのが、仮称「夢を仕事に」である。この本は私の自動車愛や自動車との関わりなどのエッセイ集である。
ネタはもう20年近く書いている「慎慮と洞察」の中の自動車と、そのデザインやマーケティング開発に関わることをテーマに書いているものを選び出したものなのだが、大局的に見ると人生における仕事の意味のような本になるのではないかと思っている。いたって個人的なものであるがどんな人でもその人の人生は世界に一つなのであるからつまらないはずはなく、死刑になるような極悪人でも、マザーテレサでもその回想録はその人しか書けない人間史なので興味深いものになるのに違いない。
無名の人の回想録などほぼ読まれないと思われるのでそこで勝負できるのはその人の人生のどの部分にフォーカスして書くか?ということになるのだろう。そのような事から私はデザイナーとしての職業、自動車関連の会社で言わば乗り物に関わってきたトピックなどをまとめようとしたのである。
20年近く書いてきているので52週間×20年として約1000編、書いている計算になるのだが、これだけ書いているので自動車やデザインに関した項目は数えると35項目あった平均3ページ書いているとして105ページになる。エッセイ集ならそんなものかもしれない。小説とちがい、一本の筋ではない、一遍ごとが言わば小説のようなところもあるからだ?
ただ、あえてこの本を考えると、自動車、デザイン、マーケティングを分子において、分母は学歴×職歴という本になっている。しかし、学歴の内容は偶然、乗り物の課題を自主的に選択し、自由課題は乗り物がほとんどであったからだ。ただ、自動車というのは対象は工業デザインを専攻する学生にとってその仕事のすべてを学ぶ基本課題のようなものだからである。10人位いたクラスメートの中で自動車を選択したのは私だけでそれを選択できた理由は当時、都内に2つしかない洋書の専門店でイタリアのカロッツェリアの仕事を紹介している専門誌と出会ったからであった。
そこには後に有名になる世界的なカーデザイナーであるジウジアーロなどの若きイタリアのデザイナーの意欲的なスケッチやレンダリングなどが紹介されてあった。私が恥ずかしくもなくカーデザイナーをめざそうか?と思った理由はそこにあった。当時、日本のどこのデザイン学校にこのような資料があっただろうか?
そう書いて思い出したのだがその頃は友人の影響もあった気がするのだが私は“自分の思想の方法としてのデザイン”としかテーマに上げていなかった気がしないではない。
ところが世の中では買い手であるお客様がどんなものを欲しているのかという課題を第一義に掲げてモノづくりをする。私の学んだデザイン学校はでは学生は自分が良いと思ったもの、創りたいものをデザインするという方針であった(あの時代はどこもそうなのか?)
当時、その典型が柳宗理であった。そして、その対極がレイモンド・ローウィだろう。私と親友S氏はそこで完全に分かれてしまった。
今から考えると後者のローウィを信奉した人は少々才能がなくても世の中に受け入れられるが、前者をめざした人はよほどの才能に恵まれない限り受け入れ先は少なく苦労することが目に見えていた気がしないではない。というのは才能がない人がそれをめざすと赤貧の未来しかないからである。
デザインという分野でその道をめざすととんでもないやけどをすることは間違いない。以前、柳宗理のデザインしたフライパンを買ったのだが(Gマークを取得してあった?)使い勝手が悪く、まったくフライパンの機能をしないので購入してから次に使うことなく我が家のキッチンに居場所を確保できなかった気がしている。そして、何年もしないで廃棄した。
柳氏のデザインは私がデザインを学んでいた頃が絶頂期で工業デザインの先生が彼のデザインしたオート三輪の話をしたことを昨日のことのように覚えている。ただ私は生理的に彼のデザインしたのが合わなかった。どうみても格好が悪いのである!
柳宗理という人のお父さんは柳宗悦でいわゆる工芸思想家でお爺さんは軍人でWIKに乗っているような人なので血筋はサラブレットのような人ではあるが、デザイナーというよりは工芸芸術家というような人で、私たちの時代ではレイモンド・ローウィなどに比べるとその存在感は大きかった。当時は正統派のように見られていたが、今考えると、あの時代だから受け入れられたのだろう。私がデザイナーとしてかれを信奉し、真似していたらとんだ悲惨な人生を送ったのではないかと思われる。
まあ、いずれにしても現在進行中のものは回顧録ではなく回想録である。
2025年2月24日T>I