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Column

伊勢紀行記2024

 後藤祐乗という三所物の天才と言われた江戸時代の金工家の作品を見てみたいということで敢行した今回の取材旅行の理由は彼の作品は徳川美術館に行ったらみられるということからだった。ちなみに三所物とは刀の個性を彩る目貫(めぬき)、小柄(こづか)、笄(こうがい)を合わせた3点の刀装具のことである。
 いわば、刀の小道具であり、わき役と言えるであろうが日本人の美学ともいえるような存在価値を持つ小道具と言えるのではないか。今回の取材旅行ではそのような本来どう見ても不必要なモノに美という個性を使って己を表現する小道具の数々を見て、あらためて日本人とは何なのかを再確認したかったのがきっかけだった。
 
 そんなことから名古屋に行って徳川美術館と刀剣ワールドを観ないと始まらないと思って1年余、二泊三日の取材旅行を敢行した。
 その中に現在、開催されている三重総合博物館の三重の歴史に残る刀工展が加わった。その中に40年ぶりに会うホンダ時代の同僚との再会があった。
 この取材旅行の一日目は名古屋市内に宿泊して、徳川美術館と刀剣ワールドそして御器所、この最後のところは重要だがおまけだが?その三つはどうしても一日で行かねばならない場所であった。
 どう動くか?そのためにどんな移動手段をとるか?これが問題であった。美術館などの取材は単なる見学とは違い、これから書くべき内容を実感として得て帰らねばならないからである。したがって、三か所を回ってそこに展示してあるものに対して情報以上に感じたものの記憶というものをも持ち帰ってこなければならないのである。
 初めての土地で時間制限がある中でその三か所を回るのは並大抵のことではなかった。その始まりはすでに自宅から始まっていた。というのはそれらの場所は営業時間があるからだ。
 名古屋に何時についてチェツクインして荷物をホテルに預け、目的地に向かうのにTAXIでいけば簡単だが、お金がかかるし、これは現地について分かったことだが流しのTAXIなど一台も走っていない。スマホで呼ばなければならないという面倒さがあった?
 したがって、地下鉄やバスを活用して動くという前提で計画したのだが、これが意外と大変だった。しかし、それを軽減するために名古屋の地理事情を把握するのは後で役立つに違いないということが後で分かったのだが、今となっては名古屋市内のアウトラインが何となくわかったようであった。
 最初の徳川美術館だが、ここには名鉄線で行くのだが乗り場が分かりにくく苦労する。地図で見ても丸の内駅からすでに分からなかった。今になって、どこがどうなって起点の駅にたどり着いたのかわからないがともかく森下駅に着いた。そこから徒歩で徳川美術館に行ったのだが、運よく現地に住む人の案内で無事にたどり着いた。館内は非常に見やすく、写真撮影も自由なので堪能できたし、高齢者割引があったし、館内の説明員も親切で、売店の対応も大変好ましいものであった。私はここで目的であった後藤佑乗の三所物を間近に見ることができた。概して、この美術館は質の高い展示物が揃っており、天下に聞こえた徳川家の宝物を見やすく開陳していた。

 次は刀剣ワールドだったが、問題はそこにどうたどり着くかである?というのは降車駅の森下駅に行くのも遠くて、たどり着くのが不安であったし、できればTAXIを捕まえたかった。徳川園の前で少し待ってみたが昼食時でTAXIは来なかったので流しのTAXIでも拾うか?と思って歩いたが、TAXIは一台も見かけない。そこではじめて気づいたのだ。もう、流しのTAXIなど一台も走っていないのだ。途中でそれに気づき諦めて森下駅へ急いだ。そのため徳川園に向かったら、多分そこへ客を運んだ帰りのTAXIを捕まえて、無事、刀剣ワールド向かった。
 刀剣ワールドは基本的に刀剣だけではなく古代からの戦の博物館なのである。一階から4階まで、美しいあらゆる武具を展示してあり、説明も丁寧で歴史作家なら必見の博物館である。 
 私はそこを出て途中で昼食をとり終って時計を見るとまだ、2時30分だったので急遽3番目の目的地、知多繁という酒問屋に向かうことにした。ここでは明日、訪ねる先輩の家のお土産として、プロセッコというベネツィアに人たちの愛飲する発泡酒を買いに行くことにしたのである。正直、一日でこの三軒を明るい内に回るのは無理と考えていたのであったが?私はその問屋がある最寄りの地下鉄の駅「御器所」という風変わりな名前の駅に向かった。そこへ向かう地下鉄の路線は分かっていたし、その駅の何番出口で地上に出るかもわかっていたので、まだ明るい内のプロセッコを手に入れて明るい内にホテルに帰った。不可能と思われた3つのミッションを達成したのだが、その日の歩行数は20017歩であった。さすがにその夜はぐっすり眠った。私の歩行歴代第5位の歩数であった。

 次の朝は近鉄名古屋駅発9時の「ひのとり」で津に向かった。プレミアムシートを友人K氏がプレゼントしてくれたので、快適な45分間であった。駅では友人がBMWで迎えに来てくれて私たちは予約をした百五銀行の歴史博物館に向かった。そこには20年前に私が調査研究した内容が展示してあった。明治期に105番目に出来た国立銀行の歴史が分かりやすく展示してあり、最初の銀行名を今での使い続けているということは100年以上も優れた経営をしてきた証なのである。この名銀行が名称になった理由は現在のコーポレートステートメントが語っている「フロンティアバンキング」、時代の最先端の銀行業務を実践してきたからなのである。
 私たちは次の目的地である石水博物館に向かった。ここで友人K氏と会い、川喜田半泥子の作品を見るのである。千歳山の高台にあるこの地は百五銀行の歴代頭取の住まいがあったところでここに居を構えた最初の人が半泥子であり、彼の作品の収蔵庫もある。
 私は20年近く前に当時の頭取である川喜田貞久氏に夕食の招待を受けて出向き最後に半泥子の茶碗の一服いただいた思い出があったが、当時、一番驚いたのは頭取の住まいの玄関に到着するまでTAXIが山を長い間、登った記憶であった。まさに絵にかいたような邸宅であったからだ。石水博物館は現代的な洗練された佇まいで建っている。わたしはその中で川喜田半泥子や坪島土平の作品を観て、この地でつくられたのだという感慨を覚えた。
 私はそこからK氏と別れて、もう一人のK氏の車に便乗して、一時間位かけて彼の住まいであるシャングリラに向かった。2500坪の敷地に建つ彼の家は見事なまでの住まいであった。私はそこで人生の先輩である氏の話に耳を傾け、奥様の手料理に舌鼓を打った。
 彼の招待を受けたのはもうわれわれの年齢ではこれが最初で最後になるかもしれないという予感からである。全くの静寂の中でかれの話し声が唯一真摯に生きた人間の存在を知らしめていた。私はそんな不思議な感覚の中に浸った。
                           2024年11月18日T>I

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