いわゆる禅において「悟り」を得られた人は天才のようなもので、極々、選ばれた一部の人しか得られるものではない!と言うことを信じていた。司馬遼太郎は続けてこう断言する。悟りの境地に行ける、いわゆる悟りを獲得できる人は天才のみである・・・
この記述の前後を忘れてしまったのだが、もしかすると空海について語ったことと関連があったのかもしれない・・・・あの司馬遼太郎がそう言ったのだから信じざるを得ない。並の人ではない。あの司馬さんが言ったのなら正しいに違いない。と思うのは司馬遼太郎の著作を何冊も、なん十冊も読んだ人ならではの確信めいた自負が根底にある。
その司馬遼太郎の空海観を“お前ごときに空海が分かってたまるか?”的なニュアンスで噛みついた人物がいたので、あの「空海の風景」読んだ私は、この男はどういうやつなのだ?と憤慨したものであった。梅原猛である。しかし、公に言うのだからたいしたものだという印象を持ったが、その理由は幾分、司馬遼太郎の「空海の風景」を読んだ人ならそう思う人は多いのではないか?
それだけ日本についての司馬遼太郎の言葉は重いものがある。したがって、司馬遼太郎が禅で悟りを開いた人は天才だけだと言った時、私は確かにそうかもしれないと思った。したがって、日本中にある数多の禅寺の住職などは悟りを開いていないだろうと思ったのは当然である。天才なんて数世紀に一人ぐらいしか出ないからである。
そんな前提をもって建長寺の開山蘭渓道隆の言行録とでもいえる、蘭渓録を読むと、禅の修行を真剣に行った人の多くが悟りを得られていることを知って、違和感はあったものの蘭渓道隆が言っているのだから間違いないと思った。
では司馬氏の最初の言説が何だったのだろうと思うようになって、それがあの梅原猛の言葉の背景にあるのだなという気がしたものであった。
司馬遼太郎は新聞記者出身の作家であり、梅原猛は学者である。梅原にしてみればお前ごときに空海の何かわかるか?この人はこのような言説が多い人であるが。
蘭渓録とは凄い本である。この凄いとはこの本の成り立ちについてである。たとえば北条時頼に呼ばれて蘭渓道隆は鎌倉建長寺の開山になるのだが、その時は建長寺がまだ、建造されていないので、すでにあった禅寺の鎌倉常楽寺法堂の須弥壇から修行僧に向けて初めて説法をする。宝治2年(1248年)の時である。
その蘭渓道隆の説法をわれわれは日本語で読むことができる。というのは蘭渓のその時の説法は中国語で行われたからである。その説法の場にいた日本人僧のどのくらいの人が蘭渓のその説法を分かったか不明だがその説法の日本語訳を読むことができるわれわれはその内容に驚く。最初の言葉が凄い。
「百千万億の法門はすべてこの門の中にある。諸人よ。この門に入ることができれば、参禅の印可をきみらに与えよう」
この言葉の奥深さと禅宗を鎌倉、いや日本で広めようとする蘭渓道隆の決意と意志をここから読み取ることができる。蘭渓道隆は日本で亡くなるまで33年間日本で住んで、全国を回り、鎌倉建長寺に眠っている。
最初にその時の蘭渓道隆の説法が事細かく載っている。それは多分、侍者の圓顯と智光によって書かれた、いわゆる議事録ともいうべきものが残っていたからだろう。
776年前の話が残されているという人間の真摯さに驚きを禁じ得ない。私は仕事がら修業時代に上司やクライアントの重要人物の話したこといわゆるベタクリして、文字に置き換えて残したことがある。修業の一環として、新人の教育メニューであったので。
現在ならばそれらは何らかの形で残すことができるが、776年後にそれを聞き、読むことができるという保証はどこにもないので上質な和紙に筆で書かれた、速記録は信頼性に勝るものだろうと思われる。
しかし、この蘭渓録はすでに中国で確立していた一つのシステムによって、今ではだれでも読むことができる。蘭渓録に収録されているものは1248年に鎌倉常楽寺に住持となって最初の説法から後に京都建仁寺の住持となった1264年までの16年間に蘭渓道隆が話した記録なのだが、それが景定五年1264年に南宋で刊行されたのである。それは南宋の孫源と石ブという二人の職工が版木を刻んだ印刷物としてである。施財したのは建仁寺監寺(かんす)の禅忍である。つまり、誰かがお金を出して、それを印刷するために中国に持っていき、そこで出版して、その一部が日本にあるということなのである。つまり、禅宗の知的資産を残し、共有するための出版のシステムがすでに776年前に出来上がっていたということである。あらためて人間の真摯さ感服してしまう。
そのお陰で私は建長寺や常楽寺に程近い寓居でこれを目にすることができるのである。
人類の知に対する崇高な情熱のようなものをあらためて教えられる思いである。
2024年10月14日T>I