本を探していたら奥の方から1984年度の手帖が出てきた。丁度40年前の手帳であり、36.5歳から37.5歳の時の毎日のメモを読むとこの年は人生の転換期であることが分かった。
言わばこれまでの人生の前半を飾るフィナーレの年である。
というのは前半の6月までで最初の会社のホンダを13年間勤めた後、1月に請われてアドポイントという小さな広告代理店まがいの会社に役員待遇で入り、そこを半年で辞めて、すぐに念願のPAOSに2ケ月間の審査期間を経て入社した年であるからだ。つまりこの期間で3つの会社に籍を置いたことになる。二番目のアドポイントという会社はマイナーな会社であったがHONDAもPAOSもメジャーな会社で社会的に知られた会社であった。
その後、Interbrand、Brandworxを経て私の会社人生は終わるのだが、数か月いたAdpoint を入れて5社の会社を体験したことになる。この中で現在まで事業活動している会社はHONDAとPAOS, Interbrandの3社だけである。亡くなった会社は皆100人以下の会社であるので小さい会社は持続性で難があるといっていいだろう。
規模は小さいがPAOS社は優れた実績を持った優れた会社である。というのは私にとってそこは大学院のような会社であったからで、今の私はこの会社に在籍した6年間なしではその後の存在も発展もなかった気がしている。
そう考えるとHONDAは大学のような会社と言えるだろう。社会的に不可欠なビジネスの基本を学び、体験し、自信を与えてくれたからである。そして、Interbrandは私が学んだすべてを駆使して毎日を過ごした職場であった。ここで私は自分の能力が社会に役に立つという実感を確認し、その見返りとして多くのモノを得た気がしている。お陰で学生生活より数倍満足のできる社会人生活を堪能した気がしている。
数倍良い社会人生活とは仕事から得られる3つの満足である。自己実現できる仕事、社会的に評価される仕事、相応の見返りがあった仕事であったからである。
人は一人一人が自分の人生を自分で決めることができる。これは生きているあらゆる人が得た権利である。それは五体満足だからですよというかもしれないが、五体満足でも自分の人生を自分で決められない人は数多くいるからだ。
この当時の転職は至難の業である。たとえば最初のHONDAは毎日新聞の求人広告欄で見て知った、仕事の内容はアミューズメントデザイナーという職種であった。その会社は鈴鹿サーキットを持っているホンダのグループ会社であった。私は学生時代に自動車やスクーターなどのテーマでデザイン開発をした3作品を持っており、また、さまざまな自動車のレンダリングの習作を持っていたので、それらをもって面接にのぞんだ。デザイナーの評価は卒業した学校ではなく、その人が学生時代にどんな課題に挑戦したかである。わたしの作品はその会社が求めていた人材に合致したようであった。しかし、返事が来るまで1カ月かかった。興信所を使って身元調査までしたのであった。一応、一流企業であったのだ。私は勿論、開発部門に配属された。そこには同年配の仲間が多く、すぐに溶け込めた。しかし、職場は埼玉県の和光市だった。本田技術研究所を取り囲む本田村の一つの建物であった。私はそこに13年いたことになるが、そこが鈴鹿に移転することになり私はやめることになったが、その際にAdpointという三流の広告代理店に取締役として年収600万円で行くことになった。しかし、3カ月でこの会社には長くいるべきでないことに気づいて、次の会社を考えた。私がHONDAを辞めたのはマーケティングをやりたいからであったのだが、広告代理店まがいのその会社はマーケティングをやるスキルも文化もない、ところであった、ただ、いいことはそれらに関する業界誌を何冊も購読できたことであった。私は昼休みや仕事中にその雑誌からPAOSという会社を探し出し、アプローチをした。その会社は業界では超エリート企業であった。そんな会社に入るには今の会社名では書類審査落ちるであろうということでHONDA の実績や作品を活用して面接に臨んだ。運よくデザイナーが多かったがHONDAのような大企業経験者は少なく、そのような企業で働いていた人を欲していたようであった。2か月間の試験期間を得て、年収600万円+αで入社できた。そこだけは広告代理店の役員としての年収を伝えたからであった。薄氷踏むような転職劇は時代を20年くらい先を行っていた。
そのPAOSにちょうど6年間いたが、ここはCI分野では世界的な会社であり、業界でも超有名な会社であったので次のインターブランド社からヘッドハンティングが来たときは迷うことなく転職した。今でこそ世界的にも有名なインターブランドではあったがその頃は社員が10人にも満たない、しがない外資系の会社であった。入社当時その現実を目の当たりにして愕然とした。どうりで社長は会社で面接をしないでホテルのロビーやランチを兼ねて寿司屋でやるわけだった。でもイギリス人の社長だからこういうスタイルなのかと思ったのだ。私はその会社に13年間在籍して売り上げを何十倍かにした。請求額が百万円単位が一千万円単位になった。そんなわたしはこの会社が最後と思っていた。
しかし、そうはいかなかった。3人のトップマネジメントが一致して仕事をしている間は良かったが2対1になった。仕事がしにくくなり、そこを去って自分の会社を立ち上げた。
Brandworxである。ブランド関連のコンサルティングの仕事であったが、10年で立ち行かなくなった。年齢も70歳に近くなり、この会社を持続させる情熱を失った私はこの会社を売り渡し、しばらくはのんびりしていたら、昔、一緒に仕事をした友人から青山学院のブランド戦略の構築の話が来た。この仕事は私一人ですべてをこなしてちょうど3年でプロジェクトが終えた。というのはパートナーだった友人が亡くなったからだ。私より15歳近く若く、素晴らしい人であった。この人との3年間のプロジェクトほど夢があり、自分自身を成長させたプロジェクトはなかった気がしている。人生最後の仕事に相応しかった。
やっとこれでデザインやマーケティングから解放された私はやっと次の仕事に取り組むことができるようになった。小説を書きたかったのである。
2024年9月9日