毎年、祇園祭がやってくる。この世界的に有名なお祭りは9世紀から続いているらしい。
八坂神社の御祭神である須佐之男命に感謝して京の街を山鉾が練り歩くのが最大の見せ場かもしれない。その山鉾は決められた地点から決められたルートを通るのであるがそれは御祭神が通る道を清めるために巡行するのであるがその一番目の山鉾が薙刀鉾である。
巡行の前日の夕べの四条通りに地下鉄の駅から出た時に遠くに控えている山鉾が見えた時の感動は今でも目に焼き付いている。最初に巡行するのが薙刀鉾である。
薙刀鉾はひときわ高い山鉾であり、その名の通り薙刀が先端に付いているのでなおさら高いのである。その薙刀は京都の伝説的名工の三条宗近が打ったものである。
現在の薙刀は三条宗近の薙刀ではないので別の方が打たれたモノであろうが、三条宗近の工房は現在まで続いている。と、言っても粟田口に工房があるわけではなく応仁の乱で京都では刀を打てなくなり奈良の若草山の麓に引っ越してきたのであった。以前、奈良に行った時、念願の三条宗近の店に出かけた。以前にも書いたようだが歩いて行こうかと思ったが、距離以上に場所が分からず東大寺の参道あたりでタクシーを捕まえて“三条宗近に行ってください”と言ったら運転手しばらく考えて
“お客さん、そこは分かりません”と!やっと思いで二代目のタクシーを捕まえると、歳を召した運転手、しばらく考えて、
“鍛冶屋さんでんな?”と言ったので“そう、そこです”と言った。モノの10分もしないで三条宗近の店に着いたのを覚えている。
家内が料理に使っている包丁を研ぐのが私の仕事なのだが、最近さぼっているので二本ばかり溜まってしまい、とうとう三条宗近の登場になった。勿論、使っていないのでまさに名刀の切れ味だそうだが、それ以上にそのブランドゆえ家内の中でも特別の包丁になっているらしい。
京都の錦小路に有次という店があり、観光客がいつもたくさん入っている、もちろん外国人も多い。見るとショウウインドに入った有次ブランドの包丁は皆、3万円以上はしていた。・・・その値段、観光客が殺到する錦小路だしな?と納得する。
ところが若草山の麓の三条宗近で買った家内の包丁は八千円であった。こちらこそ包丁のルイヴィトンなのだがな?と思いすぐに購入した。いい買い物をした喜びを感じた。
間違っても錦小路の包丁屋で包丁は買わないだろうと思い繁盛しているその店を出た。
しかし、我が家ではまさに包丁のルイヴィトンである。今度、奈良に出かけたら、また、名刀三条宗近ブランドの包丁をもう一本買うことにしよう。
ここまで書いて日付を入れたが何か物足りない。いろいろ考えた結果、わかった!あの能の十八番を見ていないからだと思って真夜中に起きて、生まれて初めての能をディスプレー上で見る。数時間前にTOPGUN MAVERICK を見た同じディスプレーに何とも、平安時代の鍛冶場が現れるのである。
78年間生きて、それ以前というよりはるか以前に作られたTOPGUN MAVERICKをみたようだ。それは、それなりの予備知識があれば内容が分かるが、作者不明と、なってはいるが素晴らしい作品で感銘を受けたのである。ただ、それには前提があった?
私は真夜中に目が覚めて。長刀鉾の三条宗近のことを考えていた。というのは何か書き足りなかった気がしたからである。この伝説的名工にはもっと語るべきことがあるはずだと思っていたからであった。この刀鍛冶の名人中の名人について・・・・そうだ、あの能の演目「小鍛冶」を見てみよう。思い立ったのだ。
文献を読むと三条宗近は大和の鍛冶らしいということなので私が「光悦はばたく」で最初の主人公である粟田口国綱の祖がやはり大和、奈良県の出身の鍛冶が仕事を求めて京都に来たと同じ鍛冶の仲間であった。時代は永延(987~989)一条天皇の時世である。約三年の短い期間だったことから、大変な時代だった気がするが、それゆえ、一条天皇は世を安んじるために三条宗近に神刀を打つように命じたのであろうことが分かる。
天皇のたっての願いに、相槌がいないので断りたいがそうもいかず、苦慮した挙句、守護神である稲荷大明神(伏見稲荷)祈願する。宗近の願いを聞き入れた大明神は狐に姿を変え、宗近の相槌を務め、無事に名刀「小狐丸」を作刀するが、その情景が能という方法で見事に見る人の心を打つ。
この25分くらいの演目はyoutubeで3つあったのでどれを見てよいかわからないので、一番下に載っていたものを選択して試聴した。舞台の演者ゾロゾロ出てきて、始まるのだが、初めて見るのでうまいか下手かわからない。ただ、笛の奏者が下手で音が出ない。
能の笛とはこんな風なのかと最初は思った。どうも下手であることが分かってきた。
後で狐に扮した相槌も現れるのだが、その演者だけが面をつけているが面の上に髪の毛がかかって顔が見えない。そういうものかと思い、能とはこの程度のモノかと思い見終わり、3時も過ぎたので寝ようかと思ったが、何か引っかかるので違う劇団?のモノを見る気になったので見たら。
オーッと声を上げた、全然違うのである。鼓の音が違う、コーラス?の質が違う?たとえば一条天皇のお使いの使者の質、声、顔、所作が違うのだ。顔が違うとは顔の良し悪しではなく、その演目の演者の役を演じるので天皇の使者として三条宗近にお願いに来たということを見る人に顔が伝えているのだ・・・・これだけではない。時代を超え、世界を超えるということはこういうことなのかということを思い知った。 人生の終わりの頃に・・・
2024年9月2日