オリンピック2024が開催されている。毎日、そのニュースでもちきりだ。そんな時だからこそ、にわかにナショナリストになる。そして、日本選手を応援するのだが日本人の体力差を今でも痛感するのは60年たっても変わらないのだ。
オリンピックに興味を持った始まりは1960年のローマ大会だった。確か中学生の頃だが戦後15年くらいしかたっていなかったので敗戦国のイタリアでは開催の予算の捻出するのが大変だったという話を聞いた。その窮余の策でローマ市内に残っている遺跡の中で一部の競技は行われた。確か体操もそうだったような気がしているがそこで行われた競技は美しく、ローマならではの演出に他の国では絶対に見られないもので感動的であった。
なぜそんなドラマチックな遺跡の中での開催を覚えているかと言うと後に学校の授業の一環で当時は映画鑑賞と言う授業があって、ローマ大会の映画を全中学生が見たからであった。だから感動的なローマ大会のオリンピックの素晴らしさを映像で記憶しているのである。
その頃はまだテレビも普及しておらず、われわれは新聞でしかオリンピックを見ることが出来なかったからであった。しかし、多くの日本人はその新聞からオリンピックの姿を夢想したのには理由があって。次回の1964年は同じ敗戦国の東京で開催される事が決まっていたからであった。その頃の私は18歳になるのであるが、そのオリンピックが終わってから日本は奇蹟の高度成長に突入するのだがオリンピックは世界に奇蹟をもたらしたのであった。
あれから、東京は二回のオリンピックの開催国になったが二回目はコロナのなかでの開催とその開催にちなんでそれを食い物にする一部の企業がクローズアップされてその開催に国家の威信どころか国家の羞恥を喧伝したようで、だれもオリンピックを喜ばないだろうな、もうたくさんだねと言う気分であった。
今回のフランス大会も正直、フランスと言う国のイメージを決して上げたとは思えない。
セーヌ川を使った演出は見事であったがその川に飛び込んで泳ぐ近代五種ではよくあのフランス人がそんな不潔を超えた場所で実施する気になったものだと思ったが?そこで合点がいったのはフランス人は風呂に入らないのでそれをごまかすために香水やオーデコロンが発達したということだった。元来、水が汚いのが当たり前であるという前提があるのであの汚いセーヌ川に飛び込むのが当たり前と思っているのだろう?
今回、フランスが清潔な文明国であると思っていた日本人は考えを改めるべきである。少なくともこの国はどうも眉唾の国なのである。審判だっていい加減だし、選手村だって食事もまともじゃないし、選手が宿泊する部屋にエアコンもついていないというではないか・・・ともかく、そういえばマクロンも・・・?わたしが生きている限りこの国に対するイメージや認識は変わることなく、残念の国として終わるのだろう?
次回のロスアンゼルス大会はそんなことはないだろう、あのアメリカでやるのだから!
期待しよう?
このオリンピック、確かにこれまで以上に様々の方法で我々はオリンピックという実態を体験できるようになったのだ。選手の態度に対しても隣の家に住む隣人の不満のように声高に発することができるのだ。だから、期待を超えた選手は絶賛されるし、そうでない選手は針のムシロである。そう考えると選手になって出場するのも善し悪しだねと言う気になってしまうが、いわゆるそういう時代なのである。国家でさえ同じなのである。
そうなるとやはり、「オリンピック東京大会1964」当時の映画「名もなく、貧しく、美しく」生きるということか?打たれ強い人は前者を、そうでない人は後者を・・・・?
2024年8月12日