【本考は前週「夏目漱石」で取り上げた2014年3月24日の考である》
「このしまおうこく」という日本画家を知る人は少ないと思われる。そのような人を知っているから私が特別、日本画に精通していることを言っているわけではない。たまたま、この画家の描いた風炉先屏風を20年ほど前に買ったことがきっかけで知ったのである。
新築した我が家を現代的な和のインテリアにしようという意図のもと、東京美術倶楽部の正札会で購入したものである。風炉先屏風とは夏季に茶をたてる際に使用する釜を囲う小型の衝立である。いわゆる屏風であるのでそこに絵が描いてある。金地の唐紙の上に扇形の和紙に墨絵で野菜などが書いてあるものが貼り付けられている。私を贔屓にしている古物商が木島桜谷は京都画壇の有名な画家なので良いものを買われた。といったのを覚えている。しかし、その木島桜谷は初めて聞く名前であった。インターネットが普及するまではそのような人についての略歴を調べるのは至難の業で美術手帳で簡単な略歴を知ることが精々であった。
なのでこの度、木島桜谷の絵を東京で見ることが出来ることを知って、これはぜひ見に行かねばと思った次第である。そんなことがきっかけで、事前にウィキペディアでかれのことを調べることが出来た。その中で興味を惹いた記事は、あの夏目漱石から酷評されたことである。また、その酷評がなんとも文豪らしくない、批評で漱石とはこんな男だったのかと思わせる内容である。
その酷評された作品が木島桜谷の代表作「寒月」であり、京都市美術館が所蔵しているその「寒月」が最後の一週間に限り見ることが出来るという。そんなわけで余計見に行きたくなった。しかし、六本木の泉屋博古館分室に最終日の2月16日にたどり着くのは大変だった。というのはその二日前に東京は半世紀ぶりの大雪で東京に行くのが、鎌倉からは大変なのである。
いわゆる住友財閥の所蔵している絵がベースになっている泉屋博古館は京都の鹿か谷に本館がある。ナビでこの名前を入れて検索すると京都の本館が出てきたので、諦めて記憶を頼りに駐車場を探し当て雪をかき分けて車をおく。IZUMI GARDENの中に小さいが重厚な造りの美術館があった。閉館30分前に入るがことのほか人が多い。私が知らないだけで広い東京にはこの画家を知っている人が多いことにあらためて気づく。
「寒月」はやはりこの催しの華のようである。一番奥の正面に6曲一双のそれが飾ってある。描かれた季節はちょうど今頃なのではなかろうか、数日間雪が降っていない竹林の中を一匹の老獪な狐が歩いている。山奥から里の方に出てきたような瞬間を描いている景色だ。しかし、まだ里ではない、それは寒月が命のぬくもりをも消し去っているからだ。老獪な狐はその寒月に対して舌打ちをしているようだ。この絵は水墨画のように見えるがそうではない、総天然色の絵なのである。景色がモノクロに近いので水墨画のように見えるだけである。唯一色彩をもっているのは、夏目漱石が嫌悪したあの狐の眼だけである。このような景色の中では青々とした竹さえも黒く見える。しかし、これらの竹を近くで見ると深い緑であり、油絵のように厚みをもって描かれている。桜谷は西洋の油絵のような技法を用いてそれらの竹を描いている。それも、漱石が嫌った要因と云われている。
漱石は西洋で学んだくせに西洋のモノを嫌悪している。かの地でかなり酷い目にあったようだ。一種のノイローゼで何度も住まいを変えているし、だれからか尾行されているというような強迫観念でだいぶマイいていたようだ。そんなことからエラク西洋に対して劣等感を感じていたようだし、その反動で日本に帰ってきて西洋かぶれをしている知識人や文化人を嫌ったのではないか。とくに、日本画の世界の画家が西洋画に憧れて画風をそのようにしようとした試みに対して容赦なかったようだ。
漱石は画家木嶋桜谷にそんな匂いを感じたのだろう、2年続けて観た桜谷の絵に対してその感情を爆発させてしまった。
「木島桜谷氏は去年沢山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい目付きといい今思い出しても気持ち悪い鹿である。今年の「寒月」は不愉快な点に於いては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹と夫と狐だか何だかの動物が一匹がいる。其月は寒いでしょうと云っている。竹は夜でしょうと云っている。所が動物は昼間ですと答えている。兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である。」
これを文展の評論記事として書いたそうである。この時、桜谷三十五歳、漱石四十五歳、桜谷はまだ駆け出しだったが、漱石はすでに文豪と呼ばれてもおかしくない地位を確保しており森鴎外と並んで当時の文人の双璧であったのではないか。しかし反面、死に至らしめた胃潰瘍などの様々な病魔に苦しめられており、そんなことからこの酷評を読むと虫の居所どころか、虫が体内で大暴れしていたのではないかと思うばかりの批評である。私などはこの文豪、写真で見る限り非の打ちどころのない英国紳士のようだが(実際英国に留学していたので)実際の人格はこのような批評を公に書くことが出来るような人間なのである。
しかし、この「寒月」という作品は桜谷の出世作とはなったが、その後の桜谷にとっては決して良い運をもたらしてはくれなかったようである。というのは明治45年の文展で最高の賞は得たが、その審査員であり東京画壇の代表として力を持っていた横山大観が安田靫彦の「夢殿」を推したが、京都画壇の代表的な画人であり桜谷の師である今尾景年が「寒月」を選ばないと審査員を下りるとごねたため、大観もしぶしぶ「寒月」を二等賞にした経緯があったからだ。ただ、この件以来、今尾景年の引きがかえって、敬遠される要因になったらしく、画人としての表舞台に出る機会を逃したともいわれている。
そんなことでこの「寒月」は木島桜谷のその後の人生の分岐点にあるような絵でもあった。漱石といい、大観といい、日本の芸術界の最高峰にいる、そのような人から直接的、間接的に敬遠されたことになるからだ。桜谷の画境が神域に入る年齢の56歳で京都の衣笠村に隠棲するように引っ込んだことも、あながちそんなことが影響しているのではないかと思わざるをえない。それ以後、漢籍を愛し、詩文に親しむ毎日ではあったが、徐々に精神を病んで、最後には京阪電車にひかれて非業の死を遂げる。それは事故であったのか、自らそれを選んだのか定かでない。しかし、竹内栖鳳と人気を二分する画家の最後としては何か因縁めいたものを感じざるを得ない。
泉屋博古館の展示会場の中にビデオがあって、桜谷の自宅で家族と共に楽しげに庭で何かしている映像が残されていた。昭和5年のころらしいが五十代半ばなのだろうか、なかなかの好々爺然として子供たちと笑いながら遊んでいた。そこには精神を病んでいた様子は覗えない。ただ、現在でも残されている桜谷の豪邸は見事なものである。
本来、京都は日本画のメッカであったが、明治になって天皇が東京に移ってから、あらゆる文化の活動拠点も東京が優勢になった。それでも画人は良き師のもとで育てられるものであった。しかし、そんな封建的なスタイルではなく美術学校というニュートラルな存在が発明されてその中で古い因習にとらわれないで画家を育てる方法が採用され。その中から日本画をリードする優れた人材が生まれてきて、それが東京画壇を形づくった。西の栖鳳、東の大観と云われ、だれもが認める双璧になったのだ。
だがどうこう言っても東京が勝ってきた。木島桜谷は京都画壇では竹内栖鳳と並ぶ存在であったが、日本画の分野でその名をあげる人はいない。夏目漱石という国家的な文豪にけなされては将来はおぼつかない。それにしても漱石のあの評論は現代だったらさしずめ炎上したのではないだろうか?そのような下卑た批評である。
今回の文豪の批評で思い出すのがもう一人の文豪である森鴎外の脚気論争である。日清・日露戦争で死んだ兵士の数よりも脚気で死んだ兵士の方が多かったと云われているが、その原因について感染症であるとの見解に固執して何万人の兵士の命を救えなかった元凶が、陸軍軍医総監・森林太郎こと鴎外だったのである。
一方、海軍では原因が食事にあるということで壊血病を克服したことを大航海時代のイギリスの経験で学んでいたため海軍軍医総監の高木兼寛は兵士の食事を早々に麦飯に変えてこの問題は解決した。また、有名な海軍カレーもこの時に一役かったらしい。一方、陸軍の方は「脚気の病原菌」説に固執していたことと、鴎外の名声もあってか、それを支持する人も多く、陸軍は何ら対策を打てず、ずるずると死者の数を増やしていった。森鴎外は個人的にも高木兼寛を得意の「文筆」を駆使して攻撃していたと聞く。ただ、この問題はいろいろ調べると鴎外連合ともいうべきドイツ医学を信奉する東京帝国大学医学部が後ろに控えていたことで余計始末が悪かったようだ。理論的にその2者から攻撃されては高木も沈黙せざるをえなかったようである。
ただ、いずれにしても文章でもって名声を持った人物からの個人攻撃をされてはたまったものではない。ただ、木島桜谷くらべ高木兼寛はその後、男爵位を授けられ、従二位と勲一等旭日大勲章を授けられ、国家と多くの人からその功を認められたからまだいい。それにくらべると木島桜谷の晩年は哀しい気がしないでもない。ひっそりと隠棲し、その名も知る人も少なくなってしまった。しかし、それだけの画家だったのかもしれない。私はそれを確認する意味でも「寒月」の景色そのままの東京に出かけたのである。
2023年9月11日再掲