ブランドワークス

Column

イギリスの女王

 ゲーテを読むのは何十年ぶりかと考えた。漠然と考えると人生で鬱々としていた頃に読んだ。小さい頃より憧れていたヨーロッパの神髄を理解するためにゲーテを読んだのだ。その後、それらの残像がヨーロッパへと向かわせた。
 
 ゲーテがイタリアへ憧れたことは後から知ったのだが、同じ北方の芸術家、政治家から一般庶民までみな、そこに憧れた。ラスキン、ターナー、ワグナー・・それらの人々が呼び水になりヘンリー・ジェームスなどのアメリカ人につながった。それらの人々は自分が人生を全うしようとするための一つの指針としてイタリアがあったのだ。
 ゲーテはその著「イタリア紀行に『イギリスの女王』という旅館に気持ちのいい宿を取っている」とヴェネチアの稿の最初に書いているので、どうもこの記述前、つまり1786以前に来てこの宿が気にいったのであろう。この時代、かれは事前に手紙か何かで予約したと思われる。
 私はヴェネチアに行き始めた頃、多分何かの情報でゲーテが定宿にしていた「英国の女王」という記述を知り、サンマルコ広場に近いそれがどうも私が泊っているホテル「ヨーロッパレジーナ」ではないかと思うようになった。そして、何回か泊まるうちにそれが確信に変わったが原典を読んでいないので確信が持てなかった。
 「イタリア紀行」の「イギリスの女王」について日本語訳の註(1960年)では現在は「ホテル ヴィクトリア」呼ばれている記載されており、私が泊った2000年当時は「ヨーロッパレジーナ」であったし、現在は「ウェスティン ヨーロッパ&レジーナ」である。ホテルの経営母体が変わると名称も変わるのだが、レジーナと言う語はイタリア語で女王とか王妃と訳すので、基本的にはイギリスという語が抜けただけで主語は変わらずレジーナであったようだ。

 しかし、このイタリアに熱烈な憧憬を感じているゲーテという人間について知るにはこの「イタリア紀行」という本は格好の書であるようだ。特に文学者をその作品からその作家の人となりを解するのはかなりむずかしい。基本的にその文学作品から分かるのはその作者の漠然として考え方や主義、価値観などの傾向だけである。
 たとえばゲーテについて「若きヴェルテルの悩み」を読んで、この作家の人物像をイメージするのは難しいが、「イタリア紀行}を読むとゲーテという人間はすぐにわかる。
私の印象はゲーテとはヨーロッパ古来の典型的な博物学者だなという事である。したがって「イタリア紀行」を書いた同じ人が「若きヴェルテルの悩み」を書いた人物と同一の人という事を理解するのは困難であろう。
 以前、何かの本でこんな記述を読んで印象に残っている。
ベートーベンとゲーテが歩いていると向こうから著名な貴族の一行が歩いて来た。ゲーテはとっさに道の端に身を寄せて頭を下げて、彼らが通り過ぎるまで動かずに待機していたがベートーベンは道を譲らずに平気で貴族とすれ違った、その後、ベートーベンはそんなゲーテの対応を揶揄したとか?しないとかのことが書いてあったようだったが、私はその時にゲーテは常識人であり、ベートーベンは芸術家なのだなという理解をした。
イタリア紀行を読む限りゲーテは自身を芸術家などとは全く思っておらず、やはりどちらかというと有能な官吏くらいに思っていたのだろう。そして、大人であったのだ。それに比べるとベートーベンは少々、幼稚な芸術家的な価値観をもっていた、いたって子供のような人間だったような気がしないではない。
 どちらがイイとか悪いとかの話ではなく「イタリア紀行」を読む限り、ゲーテという人間がよくわかるのである。したがって、イタリア紀行の初めの部分で修道院を説明するのにその修道院が立っている場所の地質が粘板岩で、とか。・・・風化もしない石英で・・・というような記述を目にすると面食らった、を通り越して、唖然としてしまった。
ただ、「イタリア紀行」とは司馬遼太郎の「街道をゆく」のような本であると思えばゲーテの意図したところはよく分かる。常に客観的に、広範に物事をとらえ記述するのだ。
 いずれにしてもベートーベンの方はすべてに辻褄があって理解できる。つまり、人間で一番偉いのは芸術家(私)で貴族なんかではないということなのだ。

ただ、「イタリア紀行」を読み進むうちにゲーテという人物がだんだんわかってくる。いわゆるクリエイティブなことならどんなことにでも興味をもつ好奇心旺盛な青年というのがゲーテなのであろう。
とくにゲーテが詳しい分野は建築の分野である。したがって、ギリシャやローマの建築から始まり、それまでの建築の様式や建築家の作品について、その建築家の特性について、体系的に研究した人でないと判りえない広範な知識を披露する。
 その他、芝居や絵画についてもドイツやフランス、勿論イタリアのそれらについて、作例を引きながら書いているので、「若きヴェルテルの悩み」を書いた同じ人物とはとても思えないというのが正直なところで基本的にこの人はギリシャ・ローマ的な知識人なのだ。いわゆるギリシャ・ローマに憧れたヨーロッパ伝統の知識人というのがゲーテの屋台骨を造っているという事なのであろう。したがって、イタリア紀行はそのような視点で見ると最高のヨーロッパ旅行案内書と言えると思う。
                             2023年4月17日T.I

Share on Facebook