ブランドワークス

Column

柳宗理のフライパン

 柳宗理は私がデザイン学校に行っていた頃の最も有名なプロダクトデザイナーであった。
柳宗理は民芸の父と言われた柳宗悦の御子息であり、そのデザインポリシーは父が先導した民芸のポリシーに通じるところがあるのは当然であろう。
 したがって、かれはアメリカ流のデザイン思想とは相いれないものがあったようで、かれがそう言っているのを聞いたことはないから断定はできないがそのアメリカの近代デザインを先導したレイモンド・ローウィなどは天敵であったのではないかと思われる。
 そんな事から思い出すと柳氏を信奉した私の古い友人は家具のデザイナーめざし、そうでない私は自動車のデザイナーをめざしたことになる。友人はいくつかの家具の会社を経験し、まだ現役で仕事をしている。一方、私は早々にデザイナーをやめてその上位概念のコンセプトワークを考える道にシフトした。彼は多分、今でも柳宗理の信奉者であろうし、私はレイモンド・ローウィの信奉者であると思う。本まで書いたくらいだからである。

 家内の友人が亡くなり、間をおいてお悔やみの品を贈ったら、葬儀を取り仕切った会社からお返しの商品カタログが送られてきた。最近の傾向での通販のお返しだ。家内はそのカタログから選択したものが柳氏のフライパンだった。
 丸いフライパンの両側をもって広げたような変わった形をしている。柳氏らしい何か理屈があるのだろう。私なら絶対に選ばないデザインである。まず、美しくない。多分、そのへんを超える何らかのメリットがあるのだろうが?
 家内から柳宗理のフライパンはどうか?と言われたので、いいんじゃないの?と消極的賛成をした。そしてそれが手元に届き、コンロの上に載っている姿を見て何とも不細工なフライパンであろうかと思った。そう考えると柳宗理と言うデザイナーは情より利が先に来るデザイナーなのだとあらためて再認識した。その根本にはフライパンなどの美を追求しても意味がないと考えたのだろう。彼にはそんな思いっきりの良さがある。しかし、かれの信奉者ならそのフライパンはどんなフライパンよりも美しいと感じるかもしれないが?
 かれのデザインで私が認める美しいデザインは唯一、バタフライスツールである。確かにそれは美しい、だが、その賛辞を彼は決して喜ばないであろう。彼はこのスツールの最善たるところは同じ部品である片翼のパーツを両方に使えるので、生産性も、コスト的にも、在庫する際も便利であるというような話であったが、物は言いようだがそんなことをアピールしなくても良いと思った。ともかく、一般的な意味で美しいのだから。だが、彼にしてみれば美しいとは売上につながる悪魔の美点とでも思っているようなのである。

 柳氏のフライパンを使い始めて、家内はその選択の間違いを認めるようになった。
理由は焦げ付きやすく、鉄板に具材がこびりついてしまうという事であった。
「なんだ!そんなフライパンは基本的な機能も果たしていないではないか?」私はそれならテフロン加工でもすればいいではないかと思ったが、民芸スピリットにおかされている柳氏はあのアメリカの権化のような企業デュポン社の力など借りては、自身のデザイン理念と異なるとでも思っているのだろう。それにこのフライパンは南部鉄を使った画期的なもので少々重いが…問題はないはずだ!(もう幾分厚くすれば焦げ付きは防げたかもしれない?)
 家内はそれを見限って実績のある別?のフライパンを使い始めた。不満はなさそうである。唯一の不満は柳のフライパンを選択したことである。私は何であんなのを選んだのかを聞くと、以前、柳氏の鍋か何かを購入したことがあるとのことでそれなりに考えられているという事であった。確かに柳宗理は見慣れた、当然と思われるものを原点に戻り考え直して改良するという姿勢でデザインするのだ。彼は常に理が先に来て、美はアピールしない。しかし、結果としてその理が間違っていたとしたら救いようもないものになる。
 ただ、あのフライパンにテフロン加工をしてさらに改良・改善するのはそれを現在作り続けているメーカーの責任であり柳氏にはないのではないかと思った。しかし、民芸の大家の倅が南部鉄のフライパンを使ったフライパンをデザインしたとしたら、確かにテフロン加工をするわけにはいかないだろうと思った。これはプライドと哲学、そして彼のイメージにかかわる問題なのだろう。

 柳宗理のデザインしたモノのいくつかは世界的な美術館にも展示されており、それゆえかネットをみてもその品々は特別な記号力を持っているようだ。いかにも近代デザインのサンプルのようなカトラリーが紹介してあった。柳宗理のものはそれらのカトラリーに彼の刻印が打ってあった。それは柳の希望か?メーカーの希望か分からない。(驚くべきことにフライパンのグリップにもDesigned by Soori Yanagiと刻まれていた)あらためて彼のデザインした品々を見る限り、やはり、それらを私は選ばないだろうと思った。
                              2023年1月23日T.I

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