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Column

取材旅行2022秋

 どんなへぼな小説家でも取材旅行は不可欠な作業である。ただ、昔に比べると情報が満ち溢れており、居ながらにして現場を目にすることができるので随分と助かる気がしないではない。

 私は本阿弥屋敷の創設期をグーグルマップで書いた後、それを確認する意味とその後を書くにあたり、ここに足を運んだ。そのキッカケになったのは狩野永徳が1565年に描いたとされる「国宝 上杉本 洛中洛外図屏風」に本阿弥屋敷と思しき家屋が描かれていることを発見したのでそれを確認したいがためである。
 本阿弥屋敷跡は現在京都今出川通りから小川通と油小路の間に長方形の敷地を持った地所にあったと思われる。特徴的なことは当初、人通りが多い小川通に川を跨いで店舗を作り、通りのお客さんを惹きつける店づくりをしており、いわゆる本阿弥家の本来のビジネスである、研ぎ、拭い、目利きだけではない刀剣関係の総合サービスを提供していたと思われた。したがって、ここに来れば刀剣に関するあらゆる顧客のニーズに応えられる店舗付きの屋敷(工房、住まい)であった。店のオープン時期は足利尊氏が政権を取った後で彼の要請によって、鎌倉から来た本阿弥長春が1353年に披いたのだ。
 といっても、まだここには本阿弥光悦はいない、彼が生まれる200年前の話なのである。
いずれにしても本阿弥家は徳川家康から1615年に鷹峯の地を与えられ、ここを去るまで
262年間いたわけだが、考えてみれば港区か渋谷区から東上線沿線の下赤塚あたりに移動せよと言われたような話で、本阿弥家の公式文書である「本阿弥行状記」には光悦芸術村をつくり、精進せよという特典を国から与えられた名誉と言うように書いているが、実は一種の所払いであった。
まあ。京都市内にいると何かと幕府の意図に沿わない政治的な活動を防止するために家康が事前に手を打った行為と言うのが真実のようであった。というのは光悦に対するこの命令は古田織部が切腹を家康より命じられた直ぐ後に出されているからである。
 いわば町人である光悦に切腹を命じることができないからであろう。なぜ、光悦が?と思われるが、光悦は利休と同じような存在でいわば、政権を握るものにとってはその政権の転覆をはかるライバルの茶道指南やお抱え絵師などをしている人間を危険視していたからである。家康はとくに用心深い男であったので、撃てば響くような答えが返せる男が幕府の転覆を考える、他の大名のお抱え芸術家になっていては甚だ困るのである。
 それに家康が幕府を江戸に開いたことによって、たとえばその仕事を受注するために狩野派の絵師集団などは江戸を本拠地にしてメインの絵師は江戸に引っ越して家康を喜ばせたが、光悦は年齢を理由に京都をガンとして動かなかったのである。まあ、可愛くない奴だ!と思われても仕方がない。
 
私の本阿弥屋敷の業務内容の仮説は狩野永徳の屏風絵に導かれたものから推測したものだが、この絵が描かれた130年後に森幸安という地図制作者が本阿弥屋敷の近辺の地図を書いており、それには小川通の左側に小川が流れていたが、幸安の地図にはキチンと小川が描かれており、本阿弥屋敷の記載がなかったからであった(その間に光悦たちは鷹が峯に移った)。私は現地を歩いてみて小川のある方の歩道が反対側の歩道の2倍くらいの広さなので、この歩道の下が暗渠になっているのかと思い京都市の土木課のHPを調べてみると何らかの折に暗渠化した記事を発見したのであった。

 その後、私は本阿弥長春の葬儀を行ったと思われる、寺院を探した。その根拠は長春の妻と娘が眠る鎌倉の浄光明寺と同じ宗派の寺がこの本阿弥屋敷の近くにないかを調べた。鎌倉の浄光明寺は真言宗泉涌寺派なので、その寺院を探したのである。ネット時代はすぐに探すことができる、ほど近い西陣にその寺を発見した。雨宝院という小さな寺であった。由来を見ると昔は東寺と同じような大伽藍を持った大寺院であったが応仁の乱で燃えてしまい、その後何度か燃えて、江戸時代に現在の規模になったようである。
 北向山雨宝院大聖歓喜寺が正式名だが小さくなって現在の名称がその寺の規模に合わせて雨宝院と小さな塔頭のような名前になったことは、上手く言い当てていると思った。
このあたりは想像だが、と言ってもあまりにも真実味があるので作者自身、もしや?という思いもあった次第であるが、このあたりが小説を書く醍醐味なのではないかと思う。
                           
 2022年11月28日 T.I

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