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Column

京都人のひそかな愉しみ

 京都マニアにはたまらない番組ですね。放映があった際に家人が録画しているので必ずそのいくつかを必ず見ることになる。日本の創作ドラマなど見ることはないがこれだけは特別な理由は京都という場所が主役だからだと思う。
 
そう考えると私が好きなドラマは基本的に好きな街の上で物語が展開されている。英国が好きだからシャーロック・ホームズが好きなのであるし、ハワイが好きだったらハワイFIVE-0ということになる(ハワイはそうでもないが?)
 しかし、だれでもそのようなところはあると思われる。小さい頃から外国に対して憧れを持っていた私はテレビが普及し始めた頃、よく放映されたアメリカのテレビドラマを必ず見たものである。スーパーマンから始まって、うちのママは世界一、ビーバーちゃん、名犬リンチンチン、サンセット77,ルート66もあったな・・・考えてみると私の世代はそのようなアメリカのテレビドラマで人格の何%は形づくられていることは間違いない。
 中学生くらいになってその嗜好がヨーロッパの映画に移る。これらは基本的にフランスとイタリアの映画をみるようになって、私の場合はヨーロッパの街に向かうことになる。 現在、ヨーロッパ映画を見る機会は少ないが、その代わりたとえば「イタリアの小さな村」や「ヨーロッパ街歩き」、「ヨーロッパトラムの旅」をよく見ることになる。

 「イタリアの小さな村」はBS日本テレビで2007年から放映されている長寿番組で発端は一人のプロデュ―サーの確信からは始まったと記憶している。したがって、それは現在においても小さな村に生きて家族を大事にするイタリア人の物語なのである。知っている限り現在の日本では考えられないライフスタイルであるが、かつては日本もそんな気がしないではない。
このようなライフスタイルを実現しているイタリアに散らばっている小さな村は信じられないくらい活き活きとしており、信じられないくらい美しい。
 それが現代に実現できているイタリアとはどういう国なのか?今さらながら驚いてしまう。たとえば若い人はいつしかその村に帰っていくという文化である。日本の若者が帰農するのとは少々違う。いわゆる、自分のルーツに向かって還るのである。そしてそのスタイルはどうも昔と変わらないらしいのだ。この番組を企画された創始者はそのようなイタリアの現在の奇蹟に感動してこの番組を企画したらしいがその勝利は15年も続いて放映されているという事なのではないか。

 あとユニークなのは「ヨーロッパトラムの旅」なのではないか、トラムとはいわゆる市電である。ヨーロッパは自動車大国ではあるが、大きな都市には路面電車が幅を利かせている。たとえばウィーンの街を取り囲むいわゆるリングは昔、城壁があったそれを撤去した後に線路を敷いてトラムを走らせたのである。旅行者は一日パスから一週間パス?まであるので、格安な足として重宝したと思われる。そのトラムはどこもだいたいな同じデザインなので国や町が違ってもベースの車両は同じメーカーようである。EUご指定のモデルがあるのだろう。この番組の特徴はナレーションがなくいわゆる車窓から街を撮って、特徴的なところは別の紹介フィルムで補足する番組なので、音はトラムの音とバックグラウンドミュージックだけである。それでも、演出は名所旧跡が多く、その街ならではの特徴的な場所を通るトラムを選んでいるのだろうと思われるので、ヨーロッパならではの静謐さの中に視聴者を放り込む。

 それにしてもフランスやイタリアの映画を観る機会がなくなったが、あの映画文化はどうなっているのだろうか?知りたいところである。たとえばイタリア映画はピエトロ・ジェルミのような名監督が「鉄道員」「刑事」を撮ったが凄い映画だった。モノクロの映画だったが私はあの映画でイタリアという国に行くことが人生の目標になったくらいである。

 現在ヨーロッパと同じ重さを持っているのが京都である。今でも年に2回、8日間を京都で過ごしている。旅行という感覚ではなくあの場所に身を置きたいという感じなのであるし、運がいいことに家内も同じなので可能になるのだ。と言っても京都の町家に泊まるわけではなく近代的なホテルが定宿なのでいち旅行者であるという意識は忘れてはいない。その非日常性の意識が京都に来ているという価値を気づかせてくれているのである。
 たしかに住んでみたいという気持ちはあるがそうなるとその価値にマヒしてしまうのではないかと危惧している。今の鎌倉がいい例だ。したがって、鎌倉に越してきた最初の頃は土日が観光客になったもので、自転車で毎週鎌倉巡りをしたものである。最近はそれもしなくなったのは慣れ過ぎてきたからだろう。
 ただ最近は鎌倉時代の小説を書いているせいか新しい鎌倉に気づくようになった。たとえば勝長寿院など今となっては正確に言うと~跡がつく場所であって寺院はないが、ここに当時、勇壮な大伽藍があったことは想像力で補うしかないが、それを補うことができるようになったからである。
 前々回に書いた新田義貞は鎌倉を攻め落とした後に本陣を置いた寺院である。そんな知識がその場所を厚みのある、現実的な場所にしてくれるのである。京都に比べると鎌倉はそのような場所が多い。
 我が家から15分も歩くと洲崎古戦場址があり石碑が建っている。私はその場所が藤沢の遊行寺から攻めてきた新田軍が鎌倉古道を通ってきたのを待ち受けた場所であり、その場所が高台で鎌倉時代なら遠く遊行寺から攻めてくる何万もの軍勢を赤橋守時が眺めたであろうことが想像できる。そのあたりは高台であり、現在は分かりにくいが鎌倉時代には遠く、遊行寺からくる軍勢が見えたであろう。執権守時はその軍勢と戦ってこの場所近くで自害するのだ・・・35年鎌倉に住んでいただけではわからない鎌倉なのである。
 そのころ京都では冷ややかに鎌倉の最後を想像していたろうと思われる。「太平記」の作者はレポーターを派遣したのではないか?
                             2022年9月19日 T.I

 

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