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Column

大忠臣蔵

 アマゾンプレミアム会員になっているのは映画が見ることができるからだ。以前、このようなテーマで書いたがその時は滅多に見ることできない国の映画を観ることができるからだと書いた。たとえばフィンランドのサンタクロースの映画や、そう言えばロシアとの戦争の映画もあった。今なら多くの人が見るような映画なのではないか。今回のウクライナ戦争に関して、フィンランドがEUに加盟することになって、その映画のことが思い出された。同じような映画でデンマークの戦争映画はドイツとの戦争がテーマであった。
 それらの映画の敵はナチか、ロシアであった。この二つの国は他国を蹂躙した国なのだ。
同じようなことが多分、アジアで創られるとしたらその敵国は日本であろう。そう言えば50年前にイタリアに初めて行った時、虎のように描かれたヤマシタ将軍のポスターを街中で見かけたことを思い出した。

 ここ何週間は「大忠臣蔵」という1971年に放映されたテレビドラマを見ている。一年間毎週1時間のドラマとして放映されたらしいので全52話のドラマらしく、今日あたりで丁度半分見たことになる。忠臣蔵はひと昔前の年末には必ずどこかで新作の映画が封切られた気がしている。クライマックスは討ち入りの12月14日である。主君の仇を討つという設定が日本人に一種のカタルシスをあたえるようだ。全員で泉岳寺まで歩く姿はまさに勝者の行進のようだが、それが事実なのが凄い。
 しかし、現在はそこになんらリアリティーを感じないし、憧れのようなものや、感動を呼ぶようなことが無くなったのかで、12月14日に忠臣蔵関連のニュースが放映されるどころか、だれの口端にも上ることは最近なくなっている?
 したがって、「大忠臣蔵」という民法初の大河ドラマが3年の準備期間を終えて1971年に放映され最高視聴率で40%近い数字ただき出したことに古き良き時代の国民心情の
機微を感じてしまう。

 忠臣蔵の映画は記憶の彼方にあるものばかりだが、だいたい2時間前後にまとめられているので各映画会社のそれは基本的に似たり寄ったりのものになってしまうので各社の違いはキャスト陣にゆだねられることになる。したがって、忠臣蔵はその映画会社の看板役者が演じることになるのは必定である。
 パターン化された忠臣蔵を一年間で演じるのは脚本的にも大変だろうなと思ってみていた。それを考えると確かにタイトルの大忠臣蔵の「大」の意味が今更ながら納得がいく。
大忠臣蔵は一年間52話の話で構成されている。これまでの2時間の映画を52時間の映画にどのようにつくるのか?興味深かった。
 ただ、忠臣蔵は今から300年前に起きた実際の事件を題材にした物語なので。これまでそれを題材にした様々な物語が創作されてきたのでそれらを題材にして様々なバリエーションが可能になっているらしく「大忠臣蔵」では網羅的に上手く組み込んで52話の映画にしたが、つまらない回はなかった。当時のNET10チャンネルは相当頑張った気がしている。現在のテレビ朝日にはとてもじゃないができない気がしたものである。

 主人公の大石蔵之助役は初のテレビ出演であった三船敏郎である。これだけでもその気合の入れようは尋常ではない。余談だが、私は赤穂浪士47人の墓所である高輪泉岳寺の隣にある高輪学園に在学している時にそのキャストの主だった人が義士のお墓参りに来たことを覚えている、60年近く前の出来事である。
 そんな事から高校在学年とこの映画がテレビ放映された1971年を計算すると、この映画の制作期間は3~4年かけていることが分かった次第であるが、この52話を観終ると確かにその位の時間をかけていることが納得できる内容であった。
 現在、時代劇テレビドラマがNHKしか作れない理由は金がかかり過ぎるのだろう。確かに若手タレントを集めたクイズ番組を1時間放映する方がどれだけ安いかである?

 今回、「大忠臣蔵」を見てあらためて記憶の彼方にあった人たちは実は忠臣蔵関連の人物であったことが解ったことである。一つは“お軽、勘平”もう一つは“俵星玄蕃”名前を聞いた事はあるがその人物のことが全く分からない人物であった。
 忠臣蔵は当時の人々の心に刺さるものがあったようで、その話を主題にした芝居などが盛んに出し物としてかけられてヒットし続けたらしく、その物語を面白くするために様々な話が創作され付け加えられたようだ。考えてみればこの作品は300年後にもヒットするくらいだから、芝居小屋ごとに創作に励んだのではないかと思われる。そのうちの二つがお軽・勘平と俵星玄蕃のようだ。「大忠臣蔵」はその名の通り歴史上語られた、嘘も真も組み込んだという意味で頭に「大」を付けたのであった。

 私が考えさせられたのは討ち入りをした内蔵助以下46名の処遇をどうするかで国を上げて悩んだことである。処遇は厳しい順に、打ち首、切腹、御赦免とあったようだが、最高責任者の徳川綱吉は相当悩んだようだ。本人は御赦免にしたかったようだが、そうすると発端となった浅野内匠頭だけが死罪で、吉良上野介を御赦免にした自分の裁定はおかしいということになる。というのは喧嘩両成敗が法であったからだ。私が面白いと思ったのは江戸時代でありながら民衆の声を気にしている最高権威者の姿である。
綱吉は悩んだ末に日光輪王寺門跡の公弁法親王に判断を仰ぐ。親王は「本懐を遂げた浪士を生き永らえさせて世俗の塵に汚すよりも、切腹させることによって尽忠の志を後世に残すべきである」と答えたという。綱吉は自らの判断ではなくそれ以上の権威に頼ったのである。その言葉は大権現徳川家康の言葉でもあったのだろう。
                           2022年9月5日 T.I

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