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開 山 忌

 2022年7月24日のこの日は建長寺の開山蘭渓道隆師の744年目の命日ということで建長寺では重要な日となっている。今年のその日は雲一つない、抜けるような青空に真夏の太陽が堂宇を照らす。この鎌倉五山第一位の寺はその名にふさわしいおおらかさでどのような人にも門戸を開いている。その文化は開山蘭渓道隆のおおらかさを今に伝えていると言っていい。
二年前の今頃、蘭渓師の法話集ともいえる蘭渓録を読み、その生涯を知って、なんとはなく、気に留めてネット上で読める様々なものから蘭渓師の人となりを知って、自分の中でこの人物を形づくって来たのだ。
というのが、どうしても鎌倉時代の元寇を書かざるをえなくなった。その主人公は北条時宗である、そうなるとかれの父である北條時頼に触れないと始まらない。そして、蘭渓道隆は北条時頼と共に建長寺を開いた人物だからである。
蘭渓録はこの人物の法話などの議事録ともいえる生々しい法話集である。ただ、この人物はその中で高僧蘭渓だけではなく、人間蘭渓として多くを語っている。私はその人物に魅了されたと言っていい。お陰様で私の頭の中には744年前の蘭渓師の息遣いまでが聴こえるようになった。禅には厳しかった師は人間には優しかった。
したがって、幼少の時宗に同じ目線で禅の神髄を語ったのである。そして、それから二〇年後、蒙古国を迎え撃つ時宗に戦の神髄ともいえる戦略的視点と言うモノを伝授した。幼少から道隆と接している時宗は蘭渓道隆が伝えたかった要諦をたちどころに理解する。時宗は当時、世界最強の軍隊を一度ならず、二度も撃退する。このあたりは「光悦はばたく・水の巻」で語られている。
蘭渓道隆にとって時宗は弟子というより倅のような存在である。小さな時から禅を通じて時宗を導いてきた。引っ込み思案の時宗に面白いたとえで禅の極意を教えてきたのである。
いつしか時宗は蘭渓道隆との修業が楽しくて仕方がなくなった。そして、成人してからも何か分からないことがあると蘭渓の下を訪ねた。蘭渓が鎌倉を離れた時は手紙でやりとりをしている。時宗は知識と知恵のためにかれを訪ね、決断する時にはかれとの問答で自分の決断の縁とした。

その蘭渓道隆が亡くなった時、時宗はただちにその面影を求めて宋から新たな師を求めた。蘭渓道隆は天上から時宗を心配していたようである。そして、南宋随一の僧をおくる。無学祖元である。
 無学祖元と会った時、時宗はそこに蘭渓道隆の影を感じたようであった。したがって、初めて教えを受ける人のようには感じなかったと周りの人に語っている。
無学は日本語を話せないが時宗は蘭渓道隆から中国語と日本語での禅の問答で鍛えられていたので無学祖元はすぐに時宗と通じ合うことができたのだ。そのことはお互いにとって良かった。通訳僧を通して話をしたのでは分からない禅の微妙なニュアンスをお互いが感じとっていた。

時宗は三十四才で亡くなる。無学祖元が下火(あこ-遺骸に火を点じること)を行い、その際の法語が残っている。無学祖元は時宗の十種の徳を挙げ時宗を偲ぶ。最後に、
~宗門の田園は荒れはて、このにごりけがれた世に永くおるべきではないから。時宗を追って天上に行こう。時宗がひとり孤独で助ける者もいないのが心配だから~
と述べている。無学は二年後に時宗のもとに行くことになるのだが、その死を早めたの
はその前年、霜月騒動が起き、時宗の意志を繋ごうと尽力した安達泰盛が御内人の平頼綱に一族もろとも滅ぼされたからである。それが時宗の遺志ではなかったことを知っていたのではないかと思われる。この乱から鎌倉幕府滅亡への物語が切って下ろされることになる。
無学祖元の言葉はそれを予期しているような気がしないではない。この無学祖元は円覚寺の開山になっており、鎌倉五山の第二位の寺院であり、第一位建長寺の開山が蘭渓道隆である。

 北条時宗という人間はこの二人の僧によって形作られたと言ってよいだろう。考えてみれば北条時宗とは哲人宰相であり、ローマの五賢帝の中に入るような人である。その彼を育てた二人の哲人は共に建長寺に眠っている。
                             2022年8月15日 T.I

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