ブランドワークス

Column

3つのプレリュード

 人生に何かやり残したことはないだろうか?68歳の時に自分に問いかけた。その時最初に思い浮かんだのが弦楽器を弾いてみたいという事であった。今から8年目の事である。初めに思い浮かんだのがヴァイオリンであった。ところがこれは近所の中学生がなかなか上手でこれと比べられそうだと思いチェロを選択し、総額50万円を投入して一式取り揃えた。人生最後の挑戦の初期コストとしては妥当であろうと思った。
 チェロというハードを選んだ理由はバッハの6曲の無伴奏チェロ組曲というソフトがありそれを弾けるようになるという明確な目標がたてられたからだ。
 そのためにどこで教えてもらったらよいかを考えた末に68歳の生徒を教えるのだからヤマハの音楽教室ならよいだろうと思い、そこに通い始めた。しかし、そこはグループレッスンで教材もヤマハの教本を使い、4人ぐらいのグループで録音した伴奏に合わせて弾くような教授法で2年経ってもバッハどころではなかった。
 70歳になった時、これじゃ念願のバッハの無伴奏チェロ組曲を弾くことはできまいという事からヤマハを辞めて次の方法を考えて個人レッスンを受けることにした。
新しい先生は私のチェロの目的と実力に合わせて3冊の教則本を揃えるように言って切りのよい翌月からレッスンを受けることになった。その3冊の教則本の内の一冊がバッハの6曲の無伴奏チェロ組曲であった。半年くらいして、次回から無伴奏チェロ組曲第一番に入ることになった。チェロを買ってから3年目でやっとバッハにたどり着いたのである。チェロを買った時、これであの超有名な無伴奏チェロ組曲1番のプレリュードを弾ければいいと思っていたので、そこにたどり着いた歓びは忘れられない。私は毎日3時間練習した。午前、午後各1.5時間、結果としてそれを5年と2か月続けた。
私が76歳になった時、人生の最終章を考えた際にチェロに費やす時間があまりにも大きいことに気づいたのでチェロのレッスンを受けることを中止した。この間で練習したバッハは1番全6曲、2番プレリュードだけ、3番プレリュードだけという、全8楽章である。
これからはレッスンを受けずともバッハを弾くことができる。ただ、全18楽章を弾くことができるかを考えると残された人生が短い気がした。最後のレッスンで先生は単発レッスンというのもありますので、連絡してくださいと親切に言ってくれたので、まさに亀のあゆみのような私のチェロ事情でも対応してもらえそうである。
 
 私はチェロに関する目標を新たに立てた、バッハのオリジナル楽譜を使ってバッハが当初、考えた原曲の本来の音楽を確認しようと思ったのだ。
・これまではフランスのチェリスト、ピエール・フルニエ版で練習をしていたので、どうせなら、バッハが意図したオリジナルの音を体験したいからである。ただフルニエ版のいいところは指番号が入っているので初心者には正しい?運指も覚えることができるのだ。
 そんな視点でYouTubeの著名なチェリストの演奏を聞いてみると、気づかなかったが多くのチェリストはオリジナル楽譜で録音していることが分かった。やはり、バッハの意図した音楽を実現するのが演奏家としての義務と思っているのかもしれない。
 音楽史的に見るとバッハの音楽は西洋でも長い間忘れられていた。音楽には時代性があり、流行がある。たとえば昔、流行った音楽を聴くことができるのはNHKの朝のテレビドラマの初めの頃のシーンで流されるくらいで、われわれのような高齢者はそれを聞いて、そのドラマで描かれている物語の時代を理解できるのである。したがって、そのような事以外に昔の音楽が取り上げられる事はない。
 これは流行歌の分野だけではない。バッハの息子のカールフィリップ・エマヌエルが父の音楽を言わば、馬鹿にして“あのおいぼれ鬘”といって古臭い音楽の代表選手というように揶揄されるものなのである。カールフィリップ・エマヌエルは音楽史で見るとバッハとモーツアルトの間にいた音楽家になる。したがって、クラシック音楽でも音楽の新旧の度合いは現代と変わらないことが分かる。ちなみにバッハの価値を見出したのはメンデルスゾーンと言われている。
 メンデルスゾーンは1809年の生まれなので、生誕年で見るとバッハとは124年の差がある。クラシックでも100年もすると忘れられるのは当然なのだろう。レコードも、スマホもない時代だ。120年前の音楽など聴くことはできない時代なのだ。
 その後、バッハとその時代の音楽はさらに真実を追求されて、それをオリジナル楽器でオリジナルのピッチ、オリジナル楽譜で演奏することを試みるようになった。これは私の時代になってからで、そんな試みを意味のないアナクロニズムであるという音楽評論家がいたものでその中には皆川達夫氏のような著名な研究家もいた。その対極にいたのが服部幸三氏でこの二人、ニコラス・アールノンクールの評価で対極であった。
 私はアールノンクールのレコードを買いその演奏を聞いて、バッハのヴァイオリン協奏曲の素晴らしさに圧倒されたと言っていい。

では、私のチェロでもそれをさらに突き詰めると絃をガット弦にして、ピッチもバロックピッチで弾いたら良いかもしれない・・・?そこまで行くのはありえないだろう。
私は、まともに譜面通りに弾くことが先決なのだからだ!それにバッハ時代のチェロを購入するには家を売らないといけないだろう・・・辻久子さんの様に?
まあ、要するに好奇心を満たすという目的で今後もチェロと向き合うことにしよう。
でも、3つのプレリュードは暗譜しよう、それくらいなら何とかなりそうだ?元気なら。
                            2022年8月8日 T.I

Share on Facebook