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Column

普茶料理

 人間75年も生きているとこの世で体験することの多くが、いや、ほとんどが体験済みということがほとんどである。厳密にいうと五官を通してそれを判断するのだが、ただ、ここ3年ばかりで初めての体験はまだ継続中のコロナ感染症と今回のロシアによるウクライナ侵攻である。しかし、この体験は複合的なものでテレビやネットで体験する視覚と聴覚の複合的な感覚が記憶に照らし合わせて判断されるものである。 
 しかし、このたび普茶料理で体験した驚きは味覚という五官の一つにおいて信じられない、初めての体験であった。わたしは決してグルメではないので、いわゆる美味しものを求めて情報を伝手に食べ歩くなどという趣味は全くない。そりゃ、美味しいものはそうでないものより歓迎すべき事はたしかなのだが。したがって、夕方の5時台に紹介されるテレビの食に関する情報番組を見ると必ずチャンネルを変えることを常としている。しかし、どのチャンネルでも食の放映なのでこまった事態に陥るのが常である。

 普茶料理ということは知ってはいた、その由来が禅宗の精進料理の一つであることも何となくわかっていた。したがって、それが黄檗宗萬福寺に由来があり、萬福寺の隠元和尚が中国からもたらしたものであることも知っていた。隠元和尚とはわれわれにインゲン豆やスイカなどをもたらしてくれた。そこから食にこだわりを持った宗派であり、その点において曹洞宗の道元とは双璧のような存在であるような気がしていた。
 禅宗とは当たり前のことかもしれないが修行者の食に対してこだわりを持っている、というより人は健康を維持することによって正しい求道を歩むことができるという基本中の基本を押さえているところなのだろう。わが建長寺のけんちん汁も単品だがその一つと言えるだろう。これは日本に限らず西洋でもそうなのではないかと思っている。
ベルギーには修道院で作った有名なトラピストビールがあるらしいし、この鎌倉にもレデンプトリスチン修道院のクッキーがある。仏教は主食に力を入れたがキリスト教は嗜好品に力を入れたという違いはあるが双方とも食に関係がある。
これはいわゆる修道する人たちが集まって生活をする場である寺院や修道院の中で日々の工夫の中で育まれたもののようだ。

かねてから京都に行った際に萬福寺に行ってみたと思っていたので京都に着いた初日にそこに行くことにした。そんな観光客のために私の泊まる定宿は駅の近くにラウンジを持っているのでここに荷物を預けホテルに届けてくれるようにお願いして初めてJRの奈良線で黄檗駅に向かった。この電車は初めてであるせいもあるが、思ったより遠かった気がした。だが宇治の手前なのでやはり京都なのであろう。この地に大本山があるのは徳川家綱が隠元和尚に日本にいて布教せよという意味で土地を与えられたからであり、日本の最高権威者からのその申し出に感激?した彼はここ日本に骨を埋める気になったのだろう。
思うのだがこのような形で日本に骨を埋めた名僧で知っているうちの一人である。他には唐招提寺を開いた鑑真和上、建長寺の蘭渓道隆、円覚寺の無学祖元などがいるが、隠元隆琦もそのうちの一人である。このあたりは日本人の真摯さに打たれたのではないかと思う。わたしたちはそこに大いなる誇りを持って良いと思われる。それに比べるとフランシスコ・ザビエルはかれらより遠い国から来たのに祖国に帰ってしまったのには何か考えさせられるものがある。

ここでやっと普茶料理に入るのだが、予約もしないで飛び込みでこのようなコース料理を頂けるのは運が良かったのではないか思う。最初に出てくる笋羹(しゅんかん)という料理が素晴らしい。いわゆる前菜で大皿に16種類の寿司の様に一口で食べられる植物(野菜だけではないので)のみで作った料理が丸大皿に2つずつ(二人分)並んで盛り付けたものである。これは二人で行ったからで、基本は4人であるの4つらしい。
何が素晴らしいかというとそれらの料理16種類の味である。すべてが初めての味なのだ。というのはどうもわれわれはなんらかの調味料で味付けされたものばかりを食べていたのでその素材本来の味と言うモノを経験していないことに気づいたのである。
何が感動したのかというとこの地上にある様々な植物の味を知ったことの感動である。
たとえばつくし(・・・)をこれほど美味しく食べさせるための料理の工夫がなんとも創造的である。何らかの練り物と組み合わせて調理されていたが、これらの素材はどうもこの店の近くにある、田畑や山野なのではないかと思った次第で野趣溢れたものばかりで、その素材本来の味を美味しくしたものだ。だから、そのオリジナル自体をこれまで食したことはなかったために初めての美味しい体験として衝動と感動をもたらしたのではないかと思っている。

 食に関しては悪食でどちらかというとマクドナルドでもよいというタイプの私が突然の空腹に襲われて、萬福寺の中で探しまわり、Netで調べた店に(普茶料理の店)電話したところ予約制なのでと断られ。これでは駅の近くで何か?と諦めて歩いていたら境内の中に何やら中国風の入口があるので家内に見てくると言って門の中に入っていったが、どうもいわゆる塔頭の一つのようであった?ただ、窓から客のような俗人の話声が聞こえるので玄関に入り大声で“頼もおー?”と叫ぶと調理人のような人が出てきたので要件を話して受け入れてもらうことになったのである。外に待っていた家内に話すと驚いたように店に入ったが一部屋に案内されたのでラッキーという感じだった。しかし、それは期待以上のものであったのだ。食でこれほどの驚きは滅多にない。普茶料理、畏るべしという事である
                                   泉 利治
2022年4月18日

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