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Column

Liberal Arts and Sciences Education

頭のワルイ人間にとって、頭の良い人というのは不思議な存在である。どうしたらあのようなものの考え方が出来るのだろうか?と思うものである。そんなことを考え始めた最初の記憶は小学校の頃からだろう。
 私は小学校を3つ転校している。1.5年を山形で、1.5年を東京の大森で、残りの3年を目黒の小学校で過ごした。頭の良い人について考えたのは目黒にいた頃であったので小学校4年生のころからである。多分その頃から自身に最も関係がある事柄が学校の成績であることが分かり始めたからの様な気がしている。
 当時、思ったことは頭のいい子はあらゆる学科で優秀であった。たとえば“研ちゃんはオール5らしいよ、凄いね!”という具合なのだ。子供心にうらやましいな?と思ったものである。私なんか一度でいいから5をとりたいな?と思った口であったからだ。そんな子は親と先生のプレッシャーでだいたいおいて学校嫌いになる。
 そんな、頭のいい奴はどうして頭がいいのだろうと思った疑問は中学校に引き継がれる。中学校では英語という新しい科目ができるので頭のいい奴もそうでない奴も同じスタートラインに立てる、と思ったものであった。ところがその結果は一学期で分かる。やはり、オール5の奴はここでもやはりオール5なのだ。やがて頭のいい奴は本当に頭がいいのだと思うことになる。いわゆる地頭のいい奴ということである。
 その後、塾などが出来たり家庭教師を付けたりする方法が考え出されて、幾分、変わるがそれでも私の時代はいわゆる誰もが地頭の良さで勝負していた気がしないではない。
地頭の良さとはその人の資質である。自然に備わったものの見方や考え方、習慣などが決定づけるものなのである。教育とはその自然という部分に一つの方法論を適用することにより子供の能力を高め、バージョンアップされた地頭をつくることである。

もう、70年近く地頭の排気量が少ないことで悩んできた私が行き着いた結論がLiberal
Arts and Sciences educationである。話には聞いてはいたがどうもそうらしいと思った理由はいくつかあるが手っ取り早い理由がノーベル賞を取っている連中がそのような教育を受けたことでその栄誉に与ったということ、また、世界大学ランキングのベストテンに入っている大学がそれを実践している?そんなこともあるだろうが、その教育法に私自身が納得したからである。Liberal Arts とはウィキペデアによると

「リベラル・アーツ(英: liberal arts)とは、
ギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで、「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」と見なされた自由七科のことである。具体的には文法学・修辞学・論理学の3学(英:trivium)、および算術(数論)・幾何(幾何学、図形の学問)・天文学・音楽の4科(英:quadrivium)のこと。現代では、「学士課程において、人文科学・社会科学・自然科学の基礎分野 (disciplines) を横断的に教育する科目群・教育プログラム」に与えられた名称である。」

ということだが私が着目したのが最初の3学である。昔はそれらをラテン語でやったらしいのでイギリス人やフランス人の子どもは母国語以外にラテン語を勉強しなければならなかった。ただ、現在はラテン語では行われないらしい。いずれにしてもそれを10歳前にやり始めるのである。10歳に満たない子が文法学、修辞学、論理学を学んだらどうなるか?
それはモノの考え方とそれを表現する方法を学ぶということなので、子どもが世界と接し、それを自分の頭の中に吸収する方法と表現する方法の基本を学ぶことに外ならない。そういえば小学校時代の頭のいい奴はそんな奴だったかな?ただ、何か独特のものがあったことを今さらになって思い出す。
Liberal Artsの後の4学を学べばノーベル賞は間違いなしの頭脳が完成するのだろう。世界の最先端に行けるはずである。
 しかし、私の小学校時代の頭のいい奴はそのエッセンスを偶然齧った程度なので残念ながらノーベル賞をもらった奴はいなかった。当時、そんな教育を私の周りで受けていたような人はどれくらいいたのか?ただ、そこは目黒だ、当時、クラスメイトのお父さんは日本人で初めてコロンビア大学に留学した人だったことをその子に聞いたことがあった。コロンビアレコードは知っていたがコロンビア大学などは知るはずもなかった。
 
 わたしがようやくリベラルアーツ教育が地頭を良くする教育法であることが分かったのはごく最近で、そのことをサウス大学という著名なアメリカのリベラルアーツ校について調べていた際の説明の中で合点がいったことがキッカケである。私などは自分の経験を中心にして考えるので専門教育に勝るものはないと考えていた。したがって、名門校の学士過程ではリベラルアーツを学び、その中で自分の未来を考えて、大学院で専門教育を受けるということの合理性のニュアンスがよくつかめなかったが、地頭を良くして、専門課程の勉強をすれば、優れた成果を残せるという物事の理のようなものが何となくわかった次第である。
 これを教養科目と言うのは少々誤解を引き起こすし、真実ではない。私なんかはそんな理解で何十年も過ごしてきたのでリベラルアーツのどこが凄いのかがさっぱり分からないのは当然である。この古来に生まれた教育法は人類にとって、なんとと尊いものであろうか。
                                  泉 利治
2021年5月10日

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