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Column

鈴鹿サーキット

 そういえばあの人はどうしているのかな?と突然、だれかを想い出したりした際に役に立つのがインターネットである。そんなことで突然、塩崎さんはどうしているのかということからスマホで検索してみたら、突然、当の塩崎定夫さんが、敬称もなく呼び捨てで目に飛び込んできた。読んでみると塩崎さんが鈴鹿サーキット開場50周年の席で鈴鹿サーキットの設計者は自分である。と突如発言したことで、投稿者はそれは違う。本当の設計者はジョン・フーゲンホルツ氏(オランダのレーシング場設計者)であり、フーゲンホルツ氏の家族とも連絡を取りあらゆる証拠を取りそろえ反駁しているのである。したがって、塩崎さんは虚言症の詐欺師扱いになっており、挙句の果ては副社長の藤沢武夫からも忌み嫌われている話なども紹介しながらとんだ人物に仕立てられているのであった。
 
 塩崎さんは昭和46年に私が入社したホンダランドの技術開発部門であるテックプロダクションを統括していた専務取締役であった。彼はHONDAの創業期に本田宗一郎を支えてきた立役者の一人である人物であったが、ホンダの技術や営業部門ではなく、基本的に本質的な意味でのHONDAの開発を担当しており、そんな意味合いからもホンダランドといういわゆる、ホンダの技術を使った特殊車両の開発や設計、遊戯車両やバギーなどのレジャー車両、身障者用車両や自動車専用道路のトンネルの点検車両などの特殊車両の開発設計部門を統治統括していた人物であった。
 私は塩崎さん、当時、塩崎専務からデザインのチェックを受けたり、様々な教えを受けていたので、それらのネット記事に何とも言えない気分で読んだのだが、塩崎さんが鈴鹿サーキットを設計したのは自分だというのも半分くらいは真実であるとの確信から本文を書く気になったのである。
 在職中、鈴鹿サーキットを造った際の苦労話はよく聞かされていたし、長靴を履いてサーキットになるべき原野を何日も歩いて見聞、調査したという話を何回も聞くにつけ、技術者としても有能であり、いわば万能の設計者である彼の下で12年間働いてきた身からすると塩崎さんならサーキットを設計するくらいのことはやりかねないだろうということに何ら異を唱えることなど出来ないからだ。
 というのは当時のHONDAの企業文化を考えると自分の会社の資本金を超えた額の投資をする大事業に対して、HONDAが1設計者にその仕事を丸投げすることなど決してないからである。ホンダという会社はともかくどんな分野でもこれまで世の中になかったものは自分で創るということを当たり前のこととして出来た会社であることを忘れてはなるまい。逆にその精神がHONDAという会社そのものなのである。そうでなければあの会社はここまで存在感のある会社にはならなかったのではないか。
 とくにモノが絡むものはともかく自前でまずやって、それで社内のコンセンサスをとる。
その後にあらゆるもの、たとえば建物なら建築家にお願いするという方法を採ったのである。本業の2輪、4輪もそのように進めるのだ。私の絡んだプロジェクトではゴルフカーの開発をHONDAが進める場合、基本のスペックを決めるとそれをHONDAグループの何社かに開発させる。それに関してはたとえばエンジンなどは同じものを開発依頼会社に支給して、期日までに試作車を造る。何か月かしてそれぞれ異なるデザインやアイデアでつくり上げたいくつかの試作車を量産車設計を担当する技術研究所で評価し、それらをベースに量産車を開発して世に送り出すという考え方なのである。したがって、グローバルカーの開発になると世界各国にある開発センターが-基本スペックを遵守した中で自由に開発したものを本部に持ち寄り評価して、次世代のグローバルカーを世に送り出すという塩梅なのだ。
本業の中では以上のような展開になるのだが、たとえばHONDAが生まれた70年近く前の話だが、確か工場か何かを建てる際にそんな大きなガラスはありませんと建設会社に言われて、本田宗一郎はそれなら、ということから自分でガラスを製作したというような会社なのである。
 そんな文化をもった会社が日本初のサーキット場の開発に本田宗一郎や塩崎定夫が絡まないわけはない。というのはかれらを身近に見てきた人間ならだれでも実感として分かるのだ。また、少しでもそのような開発に関わった人間なら“設計者は自分である”と言った場合、どの部分の設計を指しているのかを考えなければならない。
これを建築に置き換えると判りやすい。私は工業デザイナーであるので自分の家くらいはデザインし図面を画くことはできる。しかし、その図面で大工さんは、施工会社は家を造ることが出来ないし、それ以前に役所に建築申請もできない。資格がないからであり、施工業者はそれだけでは施工できないからである。したがって、設計上の約束事や、法的な遵守事項はやはり、専門の建築家にお願いしなければ具現化できないことになる。
 
その構図が塩崎定夫とフーゲンホルツ氏の間に合ったことは自明のことである。塩崎氏は本田宗一郎の意志をくんであのユニークな鈴鹿サーキットのレイアウトを考えたに違いない。私は塩崎さんの言葉からそのようなとらえ方をしていたので、塩崎定夫が虚言症の詐欺師とは思えないし、かれをそのような目で見て関係もない藤沢武夫までも登場させて塩崎定夫を貶めるような書き方は不必要な蛇足にすぎないと思わざるをえない。
 ともかく、あの時代のHONDAならそのくらいのことは当たり前の進め方であり、あれは俺がデザインしたのだということを言うくらいの気概を良しと思う会社なのである。たとえばあの歴史に残るスーパーカブでさえ、その発想は藤沢武夫であり、その意図を組んで創り上げたのが本田宗一郎と言うことになるし、それでも藤沢武夫はそんなことよりこれのお蔭でHONDAが倒産を免れたということに自分の功績があると喜んでいたのである。
 私に言わせればあのサーキット場の設計者は塩崎定夫氏であり、本田宗一郎であり、フーゲンホルツ氏なのであろう、フーゲンホルツ氏は当時、サーキット場設計の世界的権威であり、数えるほどしかいない設計者だとしたら、単にレーシング場のデッサンである線図を受け取って、これまでの経験をいかして完璧な施工図面を画き上げたのであろう。設計という意味をそのようにとらえるとしたら、ネットの告発者もフーゲンホルツ氏の御子息の言っていることは間違いなのである。いずれにしても日本に世界に誇るレーシング場が出来たことに誇りを持っていいし、それをHONDAという日本の会社があの時代に作り上げたことに誇りを持つべきなのだろう。
                                    泉 利治
2021年3月15日

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