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Column

アメリカの大学 PART-2

 書くネタも思い浮かばないので、前々回のテーマであるアメリカの大学について少し考えてみたい。というのは大学に対する考え方が日本とアメリカでは相当違うからである。
 大学とは最高学府と言われている。これはいわゆる教育において最高レベルの教育を施すということを意味している。と、私は解釈していた。しかし、これがかなり違うことが分かってきた。まず、最高レベルの教育とは何ぞや?ということになるし、それを成したところで世の中にいかほどのメリットがあるのか?ということだ。
 以上のような疑問は一月ぐらい前までの私見であった。ところが世界の現実、というよりアメリカの現実はそうではなかった。まず、大学の役割がそもそも違うのである。
大学の機能とは2つあるらしい。❶知識の普及と❷知識の創造である。前者は教育を意味し、後者は研究を意味している。少なからず私のこれまでの大学像はこの前者のことである。したがって、後者のことに関しては全く考えていなかった。そのあたりの研究とは企業や国家機関もしくは専門機関が担うというように思っていたからだ。
 日本の大学の起源はその通り、明治期において西洋の知識を我が物にして西洋に追いつくために設置されたのであった。そこには西洋人の先生や、西洋で学んで来た日本人教師がその知識を日本の若者に教えていたのである。したがって、英語教育等は煎じ詰めればアメリカでは三歳児が話していることを教えることになる。
 明治期の大学では英語から始まって全ての学問をそのような形で日本の若者に教えていた。したがって、その教えられたものはすでに西洋では既に知られた、確立された学問ばかりであったといえるであろう。勿論サイエンスも、である。
 
小学校の頃、「解体新書」こと「ターヘルアナトミア」というオランダの医学書と出会った杉田玄白らの話が教科書に載っていたことを鮮明な記憶として覚えている。そこに書いてあった人の体内の内臓の位置などがその本に描いてあった図と自分たちの医学書に描いてあったそれと全く違っていたという記述があった。今となってはそんな当たり前のことが西洋の医学なのであり、西洋の知識なのであった。
 杉田玄白らは刑場に行って役人にお願いして解剖を試み、それを確認したというような話であったが、日本における医学とはそのような観念的なものであったのだ。そのあたりから西洋の知識に対する見方の変化の兆しがあったと思われる。それが決定的になったのは岩倉使節団による欧米への視察旅行であろう。
 西洋の凄さを目の当たりにした当時の為政者たちは西洋にこそ日本が発展する鍵があると考えた。モノも購入したが知識も購入しようとした。大学を作りそこに西洋の教師を破格の給料で迎えたのである。当時の西洋はその点において気前が良かったと言えるのではないか、気前よく最高レベルのものを教えてくれたのである。元来、海の向こうから来たものを活用して国家を建設してきた日本人にとってその構図は体質に合っていた。短期間で吸収した。私はその集大成が日露戦争での薄氷の勝利なのではないかと思っている。
 
その後、日本はその構図の中で発展してきた。当初、西洋の知識を我が物した日本はあらゆる分野で西洋と変わらないまでになりつつあった。しかし、そこに日本人が気づかない落とし穴がった。それはその優れた西洋文明の知識を創造した文明とそれを真似た文明の差であった。
 2週前の本考でジョンズ・ホプキンス大学がドイツの大学をモデルにして創られたということを書いたが、この構造は日本が西洋に学んだ方法と同じ、当時、ドイツの産業力に驚嘆したアメリカがその方法を取り入れるために創った大学であった。
 イギリスで発生した産業革命の波はその後、ドイツに伝播してドイツ産業が世界を席巻するまでになった。その力の源泉を大学にあると見たアメリカがそれを真似て、いわゆる教育というより研究機関として国家の要請に応える大学として創立したのがジョンズ・ホプキンス大学である。大学を国家発展の先鋒にするという発想がその後のアメリカの発展に寄与したことは現在のアメリカをみるとわかる。同じ西洋国同士であるドイツとアメリカの関係は、日本と西洋諸国の関係よりはその洞察度合いが深かったと言える。アメリカは研究機関の大学としてドイツを手本にしたのである。

昨年末のノーベルウィークが来て、私は日本の三年連続受賞になるかと期待した。結果は知っての通りであったが、結果としてみると全受章者の半分である7名がアメリカ人であった。というより、アメリカ国籍の学者であった。アメリカの戦略目的は十分に果たされたといって過言ではない。アメリカはそれゆえ、世界でもっとも豊かで、パワフルで、価値創造のリーダーとしての君臨し続けている。
 
 以前、私はいわゆる大学の発展モデルをまとめたことがあった。大学は歴史的に見て3つのタイプの大学が生まれている。それぞれ「パリモデル」「ドイツモデル」「アメリカモデル」である。13世紀に生まれたパリモデルはパリ大学やオックスフォード大学で、これは都市の発展に伴う法律の必要性から生まれた法学校であり、それぞれの教区を統御するための学識人を育てるという意味合いもある大学であった。
 19世紀に生まれたドイツモデルは研究を大学の中核的機能として国家の発展と産業の進展に寄与させるための大学であり。20世紀に生まれたアメリカモデルはいわばパリモデルとドイツモデルの合わせたような、機能を持った大学群であった。つまり、公立の二年制大学などは新興の国アメリカの良識ある国民を育てる役目をもち、ジョンズ・ホプキンスやハーバート、MITのような大学は研究大学として、先進的な産業を生み出し国家の隆盛を導く役割を担うということである。したがって、1636年に生まれたハーバート大学は19世紀になってその経営コンセプトを変えたことになる。本来この大学の始まりは有能な村長さんを生み出すための学校から始まったからである。
                                   泉 利治
2021年3月1日

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