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Column

菅総理のスピーチ

 菅総理の支持率が下降気味、そしてとうとう逆転したというニュースを一週間以上も前に聞いた記憶がある。
 そのあたりからその菅氏を揶揄するような形容として、紙を読んでいる答弁、自分の言葉で話していない・・・挙句の果ては総理大臣としての無能さの証のような言い方をする左翼系の常連コメンテーターは言葉の端々に“紙を見ないと話せない総理大臣”というように馬鹿にしたコメントを何度もしている。そして、昨日、国会の答弁で野党の一人が“総理そろそろ紙を見て答弁するのをやめませんか?という始末。それに対して菅総理は”総理として間違ったことを言うわけにはいかないから紙を見ているのですと答えた。(そして、究極は本日27日の蓮舫の「そんな答弁だから言葉が伝わらないのですよ!」正直、その放送を見て皆はどう思ったか?多分、こんなことを言う人は世界のどこにもいないであろう。)
 そのやりとりを聞いて思ったことはこれが現代のいじめの構図なのだと思った。紙を見て答えることのどこが悪いのだろうか?を考えてみたい。多分、そこには役人の書いた原稿を何も考えずに棒読みしている政治家という、政治をしていない政治家の無責任な図式が見えているので、そこを攻撃しているのだろう。しかし、私にはそれらの意見がそのような理由であるより、紙を見ないと話せない総理の資質を攻撃しているとしか思えないのである。
 以上のような背景には一国のトップがどのように国民の前で話しているかというスタンダードの図式がありそれに合致していないからということなのだろう。これは文化の問題である。たとえばアメリカのトップで紙を見て話している政治家や企業経営者を見ることはあまりない。とくに企業経営者がスティーブ・ジョブスよろしく、装着マイクを付けて身振り手振りを加えてスピーチするのが流行っている。
 そんな姿がカッコイイということで真似をしていることが優れた経営者のように思っている経営者が多いようである。しかし、そんなことでジョブスになれると思っているのであろうか?というよりそのような芸当ができる資質に注目したい。というのはその芸当ができる資質と出来ない資質があるからだ。野党の論者に言わせるとそれができないことは総理の資質がないと言っており、そのようなスタイルで話されたことが国民の期待に応えることなのだと言っているのだろう。個人的に私は菅総理のスピーチと蓮舫のスピーチどちらが伝わっているか?心に届いているかを考えてみよう?蓮舫はありえない!
そこでちょっと待てよと考えた。総理大臣の役割は何かということである。確かに情報化時代の総理大臣としては情報発信力は大事な資質なのだろうが?本質的なところは政治の力で国を豊かにし、国民を幸せにすることではないか?
 菅総理のスピーチパフォーマンスの下手さとはあまり関係のないところに主眼が置かれているような気がしないではない。紙に書かれたことが総理の意志であるならばそれがどんな内容であろうと主眼は内容の結果次第なのである。
 アメリカの文化としてスピーチ力を高めることは文化なのである。これは小さい時から求められるようで、ディベートという授業があり、そこで議論を戦わして考えや方針を簡潔に話すという授業がある。この辺りの起源は紀元前の古代ギリシャにあるようでそのようなやり方で真実に迫る、目的を達成する、という西洋の方法論が確立する。
 どうもそのやり方が民主主義の方法として定着したようではある。古代ギリシャではコロセウムでそれをやったという話も聞く、したがって、あの巨大のコロセウムであっても舞台で話している人の声が聞こえるように設計されていたというから凄いものである。というのはそのようなやりとりを聞いて自由人は一票を投じることになるからである。聴けないのは奴隷だけである。

 人前で話して人々を説得できる才能とは確かにだれにでも備わった能力とは思えない。私は人前で話すのは大の苦手でありながら、人前で話さないと金にならない仕事を選んでしまった。マーケティングの仕事がしたくてこの道に入ったのだがそこはデザイナー以上に話すこと、それもロジカルにそして説得力を持って話すことを求められる世界であった。
 最初にその世界のトップランナーと言われた中西元男氏のプレゼンテーションを聴いて度肝を抜かれたのである。その話した内容にクライアントは魅了されて何千万円ものお金を支払うのである。こんなこと俺には出来ないな?と思いながら後半生を過ごしたがあの境地にはとても行けなかった。
 彼は紙を持っても持たなくてもそれを見ずに何時間も話せるのである。それも聴き手を離さないで。後で彼が手に持った紙を見ると要所要所に単語や数字が書いてあるだけである。私はそれを見るとその3つの単語を手がかりになぜあのようなプレゼンテーションができるのであろうかと思ってしまうのであった??
 入社したての頃、そのことを先輩社員に聞くと、彼は昔、俳優をめざしていたのでその時に培ったのではないか?というような話であった。ただよく考えると彼の話した内容は経営戦略や事業戦略の提案であり、その話の素晴らしさの本質はその提案の素晴らしさの結果であるのだ。かれはその提案の素晴らしさを伝えるために一生懸命であったに過ぎないのだということに何年かしてから気づいた。かれはそのようなプレゼンテーションを週に何回も行うのである。その神如き技はスティーブ・ジョブスの何歩も先を行っていた気がしているし、あの体験がなければ私の人生は悲惨なものになっていたと思われる。
 その時気づいたのはスピーチの本質は話し方ではなくその内容に尽きるということなのである。それが紙を見ようと空で話そうと、身振り手振りを加えて舞台の上を象の如く歩き回らなくてもである。紙を見ようが見まいがそんなことはどうでもよいのである。われわれはその話の内容やその話がもたらす結果を見極めることが重要なのである。
                                   泉 利治
2021年2月1日

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