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Column

100歳という勲章

 今日から緊急事態宣言が出たが、明後日に葬儀があるので出かけなければならない。
義父は100歳を42日間生きただけで亡くなったことになる。私の母と同じころに生まれたが私の母より40年間長く生きた。義父の家系はかなり長命と言えるだろう。
 葬儀は義父が亡くなった古河で行われるので距離的に150Kmの彼方にあるが何かと自動車で行った方が便利なので鎌倉から運転していくことになった。以前にも書いたが圏央道という高速道路が開通したので大変便利になる、ただ高齢ドライバーが平均巡航速度130Kmで走るのは異論があるというより犯罪行為かもしれない。
 晩年は長女の世話を受けたので古河に住むことになったがこの決断は義父たちにとって人生最大の意思決定だったかもしれない。というのは義父たちにとって施設を選択するというのが昨今のトレンドであるからである。義母が亡くなって四年後の同月に亡くなるというのも何かの因縁である。
 私はここ何年か義父たちの仏事と関わりをもった関係で真言宗の儀式を目の当たりにする機会がなにかと多かった。偶然だが最後の仕事のパートナーであった古澤氏も真言宗の葬儀であったのも何かの縁である。そんなことから本考のテーマは宗教になる。
 一昨夜の通夜、昨日の告別式においてその儀式を目の当たりにして、いくらか宗教事情について知っている身からすると真言宗のそれらの儀式は大変興味深いものである。真言宗を開いたのは空海である。その真言宗は真言密教と言われるように空海によって800年前に唐より持ってこられた新宗教であり、私の印象では他のメジャーな仏教宗派に比べると古い宗教であるので、いささか呪術的な要素が多いような気がしないではない。今回,義父の葬儀の際に間近でその儀式を見てあらためてそう感じた。
そう感じるのは我家が浄土真宗であり、日本においてどうも一番シェアが多い宗派であったため浄土真宗の葬儀に出る機会が多いためにそれに慣れた関係もあるかもしれない。
 たとえば護摩を焚くなどということは浄土真宗ではやらないが真言宗では最も象徴的な儀式なのではないか?それから灌頂という水を使い死者が仏になったことを意味する儀式なども浄土真宗では見られない。義父の葬儀では僧侶が灌頂を行ったり、印を結ぶのである。そのあたりがいわゆるパフォーマンスとして動的で、かつ見事なのである。浄土真宗ではお経を読むことが基本でパフォーマンスとしては非常に単調で内省的な気がしないではない。ちなみに印を結ぶとは両手を使った言葉のようなもので、一番わかりやすいものは東寺の五重塔の中の居並ぶ様々な仏像が両手を見慣れない風に組むパフォーマンスで、忍者が呪文を唱える際に行う、あの仕草が代表的なものである。が、今の人にはその忍者の姿がイメージできるか分からない。
 また、あとで家人が何か分からない言葉を唱えていたようね。と言ったが私は「あれはサンスクリット語なのではないか?」言ったがもしかするとそんな洗練されたものではなくバラモン語?などかもしれない。いずれにしても私などには手に余る領域の言葉である。
 一般的に知られている宗教の起源は古いので本来の意味は当時使われていた言葉を理解していないと分からないと言われる。以前、キリストの伝記的映画を観た時、その映画の制作者はキリスト映画の決定版を作りたいとの意図があったらしく、キリストにはアラム語というと当時キリストが使っていた言葉を話させたが、後でその言葉は現代のアラム語研究学者がシナリオを書いたらしかった。失われた言語は専門の研究者でないと書けないからだ。現代の私たちが読むことのできる聖書のオリジナルはギリシャ語で書かれているものを翻訳したものであるがどう見てもキリストがギリシャ語を話したとは思えない。
 
 しかし、われわれ日本人にとっての宗教は人生におけるイベントの際のソフトの様な気がしないではない。葬式は仏教だが、結婚式は神道やキリスト教になるし、そして埋葬は最近は樹木葬や海洋散骨・・・仏様には救ってもらわずに大海原に還るというロマンになる、こうなると原始宗教だがそんな形が現代日本のトレンドなのである。
 そういう私も遺灰の一部をベネツィアのグランカナルの入口のサルーテ教会の前の海に撒いてほしいと願っているくらいだからである。しかし、私の場合どうも散骨という意味合いとは少々異なるが?
  
 義父たちは生前にお墓をつくった。その寺は浄土宗の寺であったが年老いて長女の家に入ったので、義父たちが作ったお墓は古河からあまりにも遠い上にその寺自体に何ら縁もゆかりもないこともあり、長女の連れ合いの町内にある真言宗の寺に宗旨替えをした。このあたりは当人の意思というより、墓参りなどのその後の仏事における便利さを優先したたのである。一般の人にとって仏教はどこも同じという感覚なのであろう。したがって、生活圏にある寺院が何かと便利なので優先されるようである。
 我が家の場合、父も母もどうも浄土真宗ではあるが微妙に違っている。父の寺は浄土真宗本願寺派であるが母の実家は浄土真宗大谷派である。前者は西本願寺で後者は東本願寺である。この辺りはどうしたものなのか分からない?かく言う私の場合、コンビニエンス感覚で言うならば禅宗、それも臨済宗の寺が身近に多い。偶然だが鎌倉に一軒だけある浄土真宗の寺も近い距離にある。私がつくった母の墓はいわゆる公園墓地なので宗派は関係がない。ただ、戒名は浄土真宗の戒名になっている。しかし、知り合いの僧侶から付けてもらったので西も東も分からない。いずれにしても行き当たりばったりの感じなのである。
 本年、75歳。もうその時が間近になってきた私にはこのようなテーマが身近なテーマになってきている。ただ、京都に行けば神社仏閣に参拝するし、ヨーロッパに行けば教会に出かけ、それがカソリックであろうとプロテスタントであろうと首を垂れる。たまたま、イスラム圏の寺院は言ったことがないのでそこでどうするか分からない?どちらかというと信心深い方なので、そろそろ決断しないと、と思うが?
                                   泉 利治
2021年1月18日

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